世界で1年間に生産される繊維素材約8900万トンのうち、実に7割以上が化学繊維で、そのほとんどはポリエステルで占められている。しかし、それが大きく変わるかもしれない。
米国のベンチャー企業ボルトスレッズ(Bolt Threads)は7月20日、ファッションデザイナーのステラ・マッカートニー(Stella McCartney)とのパートナーシップを発表した。両者は合成タンパク質から製造する、いわゆる人工「蜘蛛の糸」を使ったウエアを共同で制作する。人工の蜘蛛の糸と言えば、日本ではゴールドウインも出資するスパイバー(Spiber)の「クモノス(QMONOS)」が有名だが、石油を原料にするポリエステルと違って、地球上に豊富に存在するタンパク質を原料にした合成高分子は、米国の軍事研究機関である米国国防研究計画局(DARPA)も巨額の資金を投じるほど、国内外で大きな注目を集める夢のテクノロジーだ。人工蜘蛛の糸は、ポリエステルやシルクなどの従来の繊維と一体何が違うのか。
人工蜘蛛の糸の製造に成功している企業は、スパイバーとボルトスレッズの他に、米国のクレイグ バイオクラフト(KRAIG BIOCRAFT)などもある。同社は2016年に米国陸軍と人工蜘蛛の糸を使った防弾チョッキなどを共同開発する契約を締結した。
DAPRAは11年に人工蜘蛛の糸などを含むバイオテクノロジー開発に約34億円(3000万ドル)を投じると発表、クレイグ バイオクラフトとの取り組みもその一環だと見られる。日本のスパイバーも、ゴールドウインから発表予定だった“ムーンパーカ”の販売はずれ込んでいるものの、同社の決算公告からは政府やゴールドウインを始め、すでに150億円近い資金を調達していることが分かる。業種が違うため一概には比較できないが、調達額だけでみるとすでにメルカリを凌駕しており、製品のローンチ前にも関わらず、非常に大きな期待が寄せられているのだ。
人工蜘蛛の糸の最大の特徴は、実は蜘蛛ではなく、原料になるタンパク質の遺伝子組み換え技術と発酵という製造プロセスの2つにあるようだ。スパイバーの創業者である関山和秀・取締役兼代表執行役は、以前のインタビューで「人工蜘蛛の糸の『クモノス』のテクノロジーを使えば、例えば動物のキバのように、ある部分は柔らかく、ある部分は非常に硬いというプロダクトを作ることも可能だ」と語った。
「クモノス」は、どの合成繊維よりも強靭でしなやかにするために、組み替えた蜘蛛の遺伝子からなる合成タンパク質を、ビールや食品工場の製造に使われる “発酵”によって、高分子合成を行っている。発酵プロセスの最大の特徴は、通常のプラスチックや合成繊維とは異なり、原料になる遺伝子組み換えしたタンパク質を変えるだけで、一つの工場で多彩な性質を持った合成繊維やプラスチックを作れることにある。原理的には特定の動物の獣毛やキバの合成タンパク質を使えば、それらと似たような性質を持つプラスチックや繊維を製造できるのだ。ポリエステルやナイロンは、おおもとの原料こそ同じ石油を使っているものの、製造するプロセスや工場は全くといっていいほど異なっている。関山スパイバー取締役兼代表執行役は、「いずれは、街の薬局のようなところにレシピを持っていくと、すぐ近くの町工場で自分の欲しい素材を作るという時代が来るかもしれない」と語る。
繊維産業の工業化の歴史にはこれまで2つのイノベーションがあったと言われる。1つ目が産業革命の幕開けと共に語られる蒸気機関による紡績テクノロジーの開発、2つ目がレーヨンやポリエステルなどの化学繊維の開発だ。紡績テクノロジーによって誕生したウールは、農薬の開発によりコットンに取って代わられ、そのコットンも1953年にデュポンによって初めて工業化されたポリエステルに取って代わられた。ポリエステルは扱いの容易さや優れたリサイクル性などから、あらゆるプラスチックの中でも最もコストパフォーマンスに優れたものの1つだ。だが、関山取締役兼代表執行役は、「10〜15年で現在の合成繊維やプラスチックの2割を、この新しいプロセスに置き換えたい」と意気込んでいる。この最先端のテーラーメードファイバーは、縮小に苦しむ日本のアパレル産業にとって、文字通りの“蜘蛛の糸”になるか。