「控えめにあいさつをするデザイナーが多い中で、寛斎さんはショーの冒頭に自ら歌舞伎の黒子の格好で登場し、日本語で“行くぞッ、行くぞ〜”と会場中に響き渡る大きな声で叫んでいました。海外メディアも喜んで拍手を送っていましたよ。パリコレで日本人はまだ肩身が狭かったころのこと。寛斎さんの元気がうれしかった」。
デザイナーの山本寛斎(76歳)が7月21日に亡くなった。その死を悼み、多くの追悼文が寄せられたが、そこからは故人の明るい人柄と行動力、表現者としての真っすぐな姿勢が伝わってくる。冒頭で1980年代前半の「カンサイ ヤマモト」のショーの思い出を語ってくれたのは、79年から32年間パリコレを撮り続けたフォトグラファーの大石一男だ。彼の元には訃報を知った海外の同業者からいくつかメールが届き、その一つの件名は「Ikuzo!Ikuzo!」だったという。ランウエイフォトグラファーという仕事は、狭い場所で長時間待たされる過酷な仕事だ。彼らはショー開始の遅れにしびれを切らすと、自分を鼓舞する意味も込めていろいろな言語で催促する。英語なら「Go!Go!」で、日本語ならなんと「Ikuzo!Ikuzo!」。30代の山本寛斎がランウエイであげた雄たけびは、こんな形でも国境を越えて人の記憶に残っている。それくらいファインダー越しに山本寛斎から受けたエネルギーが強烈だったのだろう。
「コム デ ギャルソン」と「ヨウジヤマモト」がデビューする前、70年代半ばから80年代前半にかけてのパリコレのプレタポルテの日本人デザイナーと言えば、三宅一生、髙田賢三、そして山本寛斎の3人だった。時代はオートクチュールからプレタポルテへの移行期である。大人のファッションが主流であったパリのファッションに、3人の日本人デザイナーはいずれも若々しく、それぞれ全く違うアプローチで挑戦していた。それまでの服作りのセオリーを覆した「イッセイ ミヤケ」。フォークロア旋風を巻き起こした「ケンゾー」。対して「カンサイ ヤマモト」は歌舞伎や京劇から着想を得たエンターテインメント性の高いショーで観客を楽しませた。
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