PROFILE:イタリア・タラント生まれ。17歳の時にセント・マーチン美術大学でデザインを学ぶために渡英。卒業後、約5年間「アントニオ・ベラルディ(ANTONIO BERARDI)」「コカパーニ」「プーマ(PUMA)」などで勤務。2004年9月に自身の名を冠したコレクションを発表。05年3月に「ジバンシィ」ウィメンズ オートクチュール及びプレタポルテ・コレクションのアーティスティック・ディレクターに就任。08年3月から「ジバンシィ」メンズ・アーティスティック・ディレクターも兼務し、現在に至る
「ジバンシィ バイ リカルド ティッシ(GIVENCHY BY RICCARDO TISCI)」の感動的な2016年春夏コレクションをニューヨーク・ファッション・ウイークで披露したリカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)は、意気揚々と次のターゲット地ミラノに降り立った。9月25日に開催された盛大なパーティーは、同ブランドのサンタンドレア大通り新旗艦店のお披露目であり、「ジバンシィ」のアーティスティック・ディレクター就任10周年を迎えたティッシの凱旋祝いでもあった。
「あのパーティーで僕は“若さ”に祝杯を挙げたかったんだ。なぜなら僕は若いときにイタリアを離れてしまったから」と41歳のティッシは言う。それほど知名度が高くなかった彼が、「ジバンシィ」のアーティスティック・ディレクターに抜擢されたのは2005年、31歳のときだった。
ティッシは幼くして“大人”になることを求められて成長した。父親は彼が6歳の時に亡くなり、母親は8人の娘と末っ子の彼を抱えていて、決して暮らしは楽ではなかった。彼はいかにも女性だらけの家庭らしく、メイクがどうの、服がどうのという姉たちのおしゃべりの中で育った。ヘアサロンで働いていた姉が持ち帰るファッション誌は彼を夢中にさせた。彼は「アズディン アライア(AZZEDINE ALAIA)」や「ジャンポール・ゴルチエ(JEAN PAUL GAULTIER)」などのルックを切り取ってはスクラップブックに張り付けた。「僕だけのバイブルみたいなものだった」と振り返る。
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当時はイタリアン・ファッションの全盛期だった。ジャンニ・ヴェルサーチ(Gianni Versace)、ジョルジオ・アルマーニ(Giorgio Armani)、ヴァレンティノ・ガラヴァーニ(Valentino Garavani)、さらにはナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)をはじめとしたきらめくスーパーモデルたち。貧しい彼には手の届かない世界だった。「学校の先生は、イタリアでビジネスを学んだり、弁護士になろうと思うなら、奨学金をとるしかないと言った。だから僕はアートスクールに入った。それが僕のブレイクスルーになったんだ」。
ティッシは12歳から、デリバリーボーイや大工として働き始め、海外のアートスクールに行くための資金をためた。時には奮発して憧れのブランドの商品を買ったりもした。初めて「ヘルムート ラング(HELMUT LANG)」のジーンズを買ったのもこの時期だ。
16歳でアートスクールを卒業すると、すぐにイタリアのテキスタイル工場でデザイナーの職を得た。この時点で彼の運命は定まったともいえる。その1年後には、セント・マーチン美術大学に入学し、英国の奨学金を得て無事卒業することができた。
彼が世界的名声を得たのは、パリを拠点とする「ジバンシィ」においてだが、「イタリアは忘れがたい思い出に満ちている」とティッシは語る。
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ミラノ旗艦店内のアクアリウム。「タイトルは思いだせないんだが、70年代の映画を観ていて、壁面がアクアリウムになっている更衣室があって、そのシーンがとてもカッコよかったんだ」とティッシ。「最初は重量の関係で難しかったんだけど、解決策を見つけて見事実現できたんだ」と語る
WWD:ファッションの道に進んだきっかけは?
リカルド・ティッシ(以下、ティッシ):学校の校長が母に言ったんだ。「息子さんは素晴らしく手先が器用だ。クリエイティブなことを学ぶべきだ」とね。僕はデザインの才能に恵まれていて、素早く自分自身を表現することができた。母たちと昼食を食べながら、「どうしてもファッションの道に進みたい」と言ったことがある。母は「うちにはお金がないのよ。ファッションの勉強をしたいなら自分で働かないとね」と言った。それで僕は働いたというわけさ。
WWD:今の自分を見てどう思う?
ティッシ:マドンナ(Madonna)やプリンス(Prince)、ナオミ・キャンベル、ケイト・モス(Kate Moss)らファッションを仕事にするにあたって夢見た人たちは大勢いるよ。そして今では彼ら全員と仕事をしている。信じられないよ。
WWD:ファッションの初仕事はイタリアだったと思うが?
ティッシ:学校を卒業して、イタリアのコモにある会社でテキスタイルデザインのインターンをした。そこは「プラダ(PRADA)」「ミッソーニ(MISSONI)」などのためにファブリックを作っていた。初めてイタリアから出たのは、オーナーがデュッセルドルフで開催されたテキスタイルフェアに連れて行ってくれたときだ。「分かった、イタリアが全てじゃない。僕にはイタリアは狭すぎる」とね。
WWD:今でも”イタリア人の血”はあなたのデザイン美学に残っている?
ティッシ:僕はイタリア人であることを誇りに思っている。それとともに、運命が僕を英国へ、インドへ、さらにパリへとみちびいてくれたことに感謝している。イタリアでは、僕のダークさ、狂気、荒唐無稽さを引き出して、発展させることができなかったと思う。それは英国とセント・マーチン美術大学だからこそできたことだ。他の人と違うことをするようにとも教えてくれた。
WWD:卒業後は?
ティッシ:卒業して、僕は考えたんだ。若いデザイナーの下で仕事をしたいと思った。それこそ、若いイタリア人デザイナーが絶対にやらないことだからね。それで、ステファノ・グエリエロ(Stephan Guerriero)の下で働くことにした。
WWD:その後、同じくイタリアの「コカパーニ(COCCAPANI)」で仕事をし、次には「ルッフォ リサーチ(RUFFO RESEARCH)」に移ったが?
ティッシ:「『ルッフォ リサーチ』をデザインする最初のイタリア人になってほしい」というオファーが来たときは本当に誇らしかった。なのに、仕事を始めてたった3カ月後に倒産してしまったんだ。あれほどつらい経験はなかった。
WWD:イタリアでの仕事は、ファッションへのアプローチに大きな影響を与えた?
ティッシ:もちろん!自分のスタイルに自信を持てるようになった。いろいろな面で自分はイタリア人だなと感じることが多い。僕がデザインすると奇妙なものでさえセンシュアルになる。それがすごくイタリアっぽいと思う。エレガンスはフランスの十八番だし、荒唐無稽はイギリスならではだ。
WWD:イタリアの人々はあなたを誇りに思っていると思うが?
ティッシ:もちろん、イタリア人はみんな僕を誇りに思っているよ。イタリアン・ファッションに新時代をもたらし、ファッションに対する新しい見方を提供したからね。僕がやるまで、イタリア人デザイナーで、ダークさやゴシックテイストにチャレンジした者は1人もいなかった。イタリアでは、ハイセンス、セクシー、ファンタジーが全てだったんだ。でも、僕は英国やフランスでも育ったと思っていて、決してイタリアだけにとらわれてはいない。
WWD:あなたが全てをデザインし、あなたのクリエイションで埋め尽くされたミラノ旗艦店については?
ティッシ:少年のころ、僕がいつも憧れていたストリートだからね、言葉にできないほど感激している。そこに僕のスタイルを満載したショップを引っ提げて“凱旋”できたんだ。普段はショップオープンの祝賀パーティーを開いたりはしないんだけど、今回は特別だよ。最高にファンタスティックだ。