湯気がのぼる釜からシャツを引き上げると、南国の海のような青の濃淡に染まっていた。丸ノ内線・茗荷谷駅から徒歩8分。内田染工場(文京区白山)は都心の染色工場としてファッション業界では知られた企業だ。釜と呼ばれる染色機械をはじめ、いたるところから蒸気が立ちのぼる。冷房設備はあるものの、場所によっては気温が40℃になることも。社長の内田光治さんは「これからの季節、猛暑日に屋外に出ると涼しく感じることもあります」と笑う。
パリコレブランドからアイドルの衣装まで
製品染めを中心に手がける。なめらかな色の変化が楽しめる「グラデーション染め」、染料や顔料を直接吹き付ける「スプレー染め」、板で挟んで染めたり脱色したりする「板締め染め」などの特殊加工を得意とする。色の調合、素材の見極め、染めのタイミング、一瞬の判断が出来上がりを左右する繊細な職人仕事である。
染める服は多岐にわたる。パリコレクションに出展するような数々のデザイナーブランド、有力セレクトショップのプライベートブランド、さらにはアイドルグループのステージ衣装、清涼飲料水のCMの衣装ーー。昨年の東京五輪・パラリンピックでは一部スタッフの衣装を担当し、世界中の人の目にとまった。
5月下旬に訪れると、あるデザイナーブランドが6月に店頭に並べる盛夏物の染色と、同じブランドが6月のパリコレクション(23年春夏メンズ)のショーで発表する服の試作が同時に行われていた。デザイン画や着想源の写真などをもとに、デザイナーが表現したいニュアンスや空気感まで染色で作り上げる。
都心という地の利もある。ブランド担当者が訪れやすく、職人と現場で微妙な色合いのすり合わせができる。バイク便によるスワッチ(素材見本)の確認もひっきりなしに行われる。「ミュージシャンがコンサートで着る衣装を2、3日後までに染めてほしい、といった駆け込み依頼もあります。(短い納期でも)できる限りは応えるようにしています」。
現場から新しい技法を発信する
1909年、和装織物の糸染め工場として現在の場所で創業した。目の前には川が流れていた。水をたくさん使う染色業に適した土地のため、同業が点在していたという。戦時中は創業者の故郷である群馬県桐生市に移転して靴下製造業を営んだ。55年に東京に戻って染色業を再開。内田さんは2005年に3代目の社長に就いた。
創業から113年。川はとうの昔に埋め立てられ、付近で稼働する染色工場は同社だけになった。手仕事の伝統を守りつつ、時代に合わせて変えるべき部分は変える。染料の配合を自動化するCCM(コンピュータ・カラーマッチング・システム)や、生産スケジュールのデジタル管理システムなどを他に先駆けて導入してきた。有害物質を使わない安全な繊維製品の国際認証「エコテックス スタンダード100」も取得した。今後は、染色工程で出る高温の排水を熱交換によって再エネ化する、新しい設備の導入を計画している。
19年にはオリジナルブランド「ウチダ・ダイイング・ワークス(UCHIDA DYEING WORKS)」「小石川染色工房」を立ち上げた。若手を中心としたスタッフが実験的な加工を施した服をインスタグラムに投稿したり、展示会に出展したりしている。それらを見たブランドからの問い合わせも少なくない。新しい技法がデザイナーの感性を刺激し、新しい服を生み出す。
染色工場にもファッション市場の変化が波及する。アパレルによる大ロットの見込み生産が減り、小ロットの注文が多くなった。在庫の廃棄が問題視される中、いったん店頭に並べられた商品を、デザイン変更した上で染め直すアップサイクルも急増した。サステナビリティーを重視する傾向は年々強まる。内田さんは「従来のアパレルの作り方が急速に見直されているように感じます。私たちも技術を磨き、変化に対応したい」と話す。
明治、大正、昭和、平成、令和。着物の時代に創業し、戦争を乗り越え、戦後の既製服の発展を支えた。成熟の時代を迎え、持続可能なモノ作りを模索する。同社の歩みは、ファッション産業の縮図といえる。