ファッションショーの撮影の第一人者である大石一男は1979年からの30年間、世界各地で「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」のショーを撮影してきた。膨大な写真の中から、大石が特に印象に残っているといういくつかのショーの写真とともに、同時代を駆け抜けたデザイナーについてエピソードを聞かせてくれた。
私は1979年からパリコレクションを撮影しているが、三宅一生はその頃すでに有名デザイナーとして活躍していた。それもパリに限らず、ニューヨーク、東京、そして私はオランダのアムステルダムでのショーにも行ったことがある。ひとりのデザイナーを4カ国に渡って撮影したのは三宅一生だけである。
社会はまだ欧米人中心で日本人は会場の片隅にいた頃である。カメラマンも同様で東洋人は日本人のみ4~5人で、それもパリ在住の者ばかりで日本からは私ひとりだけだった。当時はランウエイと呼ばれるステージが施され、ステージを取り囲むようにコの字型にカメラマン、そのすぐ後ろには世界的なジャーナリストやバイヤーとよばれる百貨店の社長や、お偉方が陣取っていた。モデルがステージを歩くたびにカメラマンが立ち上がり撮影すると、後方から脚で蹴られたり「立つな」とジャケットを引っ張られたりなどの嫌がらせを毎回と言っていいほど受けた。しかし髙田賢三、三宅一生、山本寛斎、その後川久保玲、山本耀司といったデザイナーの活躍により、 我々日本人カメラマンの立場も強くなった。
三宅一生のショーはコレクションのみならずステージ造形も楽しみのひとつで、いつもシンプルなステージに大きな空間を感じさせ、見る人を一瞬にして異次元の世界へと誘い込む。パリコレに訪れる多くのジャーナリストやバイヤーが、三宅一生のことをデザイナーという表現にとどまらず、アーティストと呼んでいたのが今も記憶に残る。
三宅一生は時おり、他のデザイナーのショーへ顔を見せることがある。特に「エルメス(HERMES)」のショーではたびたび見かけた。あるとき、私がステージに陣取っているとステージを挟んで反対側に座った一生さんと目が合い、突然怒ったような口ぶりで「この前のテレビ番組は何だ!」と言った。一瞬私があっけにとられていると、なおも「あんなことするから、モデルが堕落するのだ!」という。私はこの時、一生さんが何を言いたかったのか理解できなかったが、パリコレへ来る直前、「モードの女神たち」というスーパーモデルの写真展を行い、PRを兼ねて深夜のテレビ番組に出てスーパーモデルのことを話したのを思い出した。確かに三宅一生はそれまでスーパーモデルと呼ばれるモデルを起用したことはなかった。93年春夏のコレクションでドイツのフォサイス率いるカンパニーのダンサーたちが新作のプリーツの服を身に着けステージ狭しと踊る様はまさに映画のワンシーンを思い起こすようで、ショーがフィナーレをむかえると人々は夢から覚めたかのように、いつまでも惜しみない拍手と声援を送っていた。 三宅一生のそのショーはスーパーモデルの必要性もなければ、その存在すら否定するかのようであった。今は亡き三宅一生さんのご冥福と安らかな眠りをお祈りいたします。(大石一男/写真家、フォトジャーナリスト)