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【追悼 森英恵】反骨精神をたずさえ世界に羽ばたいた人生

 「私の蝶は銀色に輝くジェット機のイメージよ」――2020年に水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催された「森英恵 世界にはばたく蝶」展のエントランスに大きく掲げられた言葉だ。その言葉の下には「日本の良質な布地を使い、日本の手で創った服をジェット機に乗せてアメリカへ運ぶ。私が蝶に重ね合わせたのはそういう力強いイメージだった」と記されていた。森英恵は2022年8月11日、その生涯の幕を閉じた。

 まさに世界をまたにかけて羽ばたいた森英恵。優雅でエレガント。しかしその根底には反骨精神がある。アメリカで粗悪品として売られるメイド・イン・ジャパンのブラウスを目にし、本来の日本人が持つ高い美意識と伝統を伝えたいと願い、ニューヨークで観劇したオペラ「マダム・バタフライ(蝶々婦人)」で描かれていた日本人の哀れでかよわい女性像や日本が全く理解されていないことに憤りを感じ、そのイメージを変えたいと強く思う。冒頭の言葉は、戦後の復興期にファッションデザイナーとして、女性として、そして東洋人として「世界に力強く羽ばたいていく」という強い意志が込められている。22歳で結婚し、それから洋裁を学び、子どもを育てながら世界を飛び回り仕事をする。一人の女性の生き方としても当時の時代背景を考えると驚嘆に値する。

 2年前に開催された「森英恵 世界にはばたく蝶」展が、森英恵にとって最後の大きな展覧会となった。オープニングに際して来場すると聞き、会場に取材に向かったが当日体調が優れないとのことで話を聞くことはかなわなかった。だがその展覧会は代表的なモチーフである蝶を糸口にその足跡を辿る構成で、日本人ファッションデザイナーの先駆けとして活躍してきた森英恵が生み出してきたオートクチュールの作品や映画、舞台衣裳、ユニホームなどが展示され、多岐にわたる仕事を通して、激動の時代を切り開いてきた道程がそこにはあった。それらの写真と共に森英恵の軌跡を振り返る。

森英恵を語る上で欠かせない蝶

 森英恵のエレガンスの象徴でもあった蝶は、歴代のコレクションの中でも多く使われてきたモチーフだ。育った島根県の自然がルーツであるが、のちに「『マダム・バタフライ」を観て奮起した自分が、いつの間にか『マダム・バタフライ』と呼ばれる存在になっていた」と語っている。蝶が色とりどりに舞い、花がドレスの上で咲き誇る。森を代表するモチーフの蝶が知名度を押上げる一助になった一方で、長いキャリアの中でその固定されたイメージにより悩んだこともあったのだという。それでもその生涯を通して女性に自信と気品さを与えてくれる服を作り続けた。

 「森英恵 世界にはばたく蝶」展では、時代の垣根を越えてあらゆる年代の蝶をモチーフにしたドレスを数多く展示していたが、どの年代のドレスが並んでも全く古さを感じさせない。森の意向でそれぞれ制作された年代は記載されておらず、タイムレスなスタイルであることを伝えている。

オートクチュールの礎を築いた映画の衣裳

 森は生涯で数百本もの映画作品の衣裳デザインを手掛けた。特に1950〜60年代には数多くの依頼を受け、多忙な毎日を送っていた。監督の意向に添いながら演じる役やその役者に合わせてデザインすることは、後々のオートクチュールの礎となっていた。

 「太陽の季節」(1956年)では主演の南田洋子の衣裳を担当する。コットンレースのワンピースが海辺に映えた。「狂った果実」(1956年)では女性の衣裳の他にも石原裕次郎をはじめとする男性陣のアロハシャツなどもデザインした。あえて女性用のプリント柄で仕立てたという真っ赤で大胆なデザインのアロハシャツは、強引で自由奔放な石原演じる夏久と重なる。公開後には映画のファッションを真似た若者が街に溢れたという。

 他にも小津安二郎監督の「秋日和」(1960年)、石原裕次郎、浅岡ルリ子が出演した「銀座の恋の物語」(1962年)など、数多くの映画を担当してきた。2003年には篠田正浩監督の作品「スパイ・ゾルゲ」では40年ぶりに衣裳デザインを担当し、イアン・グレン(Iain Glen)、本木雅弘、葉月里緒菜らの衣装を手掛けた。

大切にしてきた舞台の世界

 1961年にニューヨークで観劇した「マダム・バタフライ」で憤りを感じてから、24年の時を経て、浅利慶太演出による「マダム・バタフライ」がミラノ・スカラ座で公演されることになり、その衣裳を森英恵が手掛けることになる。1904年にイタリアで初演された同作は、85年公演で初めて浅利が演出したオールジャパンによる制作として実現。日本人スタッフで手掛けた同作は、純粋で芯の強い日本の女性が表現され、長年の思いが晴れたという。この作品をきっかけに浅利とタッグを組み、その後劇団四季の「エビータ」(1987年)、「夢から覚めた夢」(1988年)、「ミュージカル李香蘭」(1991年)、「鹿鳴館」(2006年)などの作品を共に作り上げた。

オートクチュールの魅力に触れ世界を目指す

 1954年、当時28歳だった森は帝国ホテルで開催されたクリスチャン・ディオール(CHRISTIAN DOIR)のショーを観て、夢を与えるオートクチュールに衝撃を受ける。その後61年にパリやニューヨークへ渡り、日本から世界へ踏み出す決意をする。65年にニューヨークのホテル、デルモニコで初の海外コレクションを発表し、75年には本場パリでショーを開催。77年に東洋人として初めてパリ・オートクチュール組合のメンバーとなる。既成服が主流となる中で人の手で創る衣装にこだわり、日本の生地や染めの技術、和を感じさせるモチーフや色彩を取り入れた。

日本の顔としてのコスチューム

 1992年にはバルセロナオリンピック日本選手団の公式ユニホームを、94年にはリレハンメル冬季オリンピック日本選手団の公式ユニホームをデザインしている。それらのオリンピックに先駆け、1988年のソウルオリンピックではシンクロナイズドスイミングの小谷実可子のコスチュームをデザインした。演技の曲が「マダム・バタフライ」であったため、白い水着に色とりどりのビーズを縫い付けてアゲハチョウを描いた。その華やかな蝶が小谷選手と共に水の上で舞い踊った。

 森英恵は70年の大阪万博や学校や企業、公共施設、コンパニオンなどの制服も数多く手掛けているが、中でも日本航空の客室乗務員の制服は毎回話題を集めた。デザインを担当した4代目、5代目、6代目の制服のうち、特に1970〜77年に採用された5代目は、当時流行していたミニ丈のワンピースを採用し、ネイビーをベースにベルト、スカーフ、シューズの赤が効いているデザインで制服としては画期的だった。

雅子妃殿下のローブ・デコルテ

 森は1993年、当時の皇太子殿下のご成婚の際、妃雅子妃殿下の結婚の儀のローブ・デコルテを手掛けている。明暉瑞鳥錦(めいきずいちょうにしき)という織り柄の生地を用いて作られ、祝賀パレードではドレスに上着を着用した装いだった。雅子妃殿下に会った際、白いバラのような印象を受けたことから、襟元は大きな花びらが咲いたかのように一枚一枚あしらったのだという。

 ロイヤルでいえば、モナコ公国のグレース・ケリー(Grace Kelly)公妃は森英恵のドレスの顧客だった。1975年にはグレース公妃の招きによりモナコへ赴きショーを開催する機会に恵まれた。

復活コンサートを支えた美空ひばりの衣裳

 昭和の歌姫、美空ひばりの衣装といえば、羽をあしらったヘッドピースを思い浮かべる人も多いだろう。森は美空ひばりの晩年の約10年間のステージ衣装を担当していた。闘病ののちに復帰し1988年に開催した東京ドームのこけら落し公演「不死鳥コンサート」で着用したドレスは、今もなお多くの人々の記憶に残っている。生地も仕立てもオートクチュールで仮縫いもトワルと本生地の2回行っていたという。万全な体調ではない中、負担にならないよう衣裳の重さに細心の注意を払い、かつ小柄なひばりが大きく見えるような不死鳥と深紅の花のドレスを作りあげた。美空ひばりが1989年に亡くなった後も2004年まで美空ひばり記念館に毎年新作ドレスが加えられていったのだという。

未来につなぐオートクチュール

 最後に森英恵に直接話を聞けたのは2017年のことだ。「WWD JAPAN」2000号に際し、日本人オートクチュールデザイナーの第一人者の森英恵と2016年7月に日本人として2人目、12年ぶりのパリ・オートクチュール・ファッション・ウィーク公式ゲストデザイナーの一人に選ばれた中里唯馬「ユイマナカザト」デザイナーとの対談企画だった。対談の中で印象的だったのは、森がビジネスとしてのファッションについて語っていたことである。

 1965年にニューヨークでショーを開催した後に高級百貨店ニーマン・マーカスのオーナーから声をかけられ米国でのビジネスがスタートしたが、森は「ニーマン・マーカスでは商品を売るわけですから厳しいわけです。それが勉強になる」と語っている。さらには、「ジョン・B・フェアチャイルドさんは米『WWD』のトップだった人で、厳しいジャーナリストだったから、よく書かれるときと厳しいときとあったけれど、この人の批評はホンモノだと思ったので、注目して仕事をしていた」とし、クリエイションそのものの、ある種の純粋な部分の追求のみならず、ビジネスとして客観視していたことが分かる。「服が売れなければビジネスは続かない」。そう話していたのは、ビジネスとして時に苦しい時代も経験したからこその言葉だったのだろう。未来を背負う若いデザイナーたちに、その夢を追い続けてほしいからこそのエールではなかったのではないかと推察する。森英恵は、後世のファッション、文化、芸術に多くのものを遺した。ここにご冥福をお祈りする。


 

【森英恵 年譜】

1926年
・1月/島根県鹿足郡六日市町に5人兄弟の次女として生まれる

1947年
・3月/東京女子大学を卒業

1948年
・5月/戦争中の勤労奉仕で知り合った森賢と22歳で結婚
・ドレスメーカー女学院で洋裁を学び始める

1951年
・新宿に洋裁店「ひよしや」をオープン

1954年
・「ひよしや」銀座店をオープン
・日活映画「かくて夢あり」(1954年)の衣裳を手掛け、以後、日活のほか大映、東宝、東映、松竹などで数百本の映画衣裳を担当

1963年
・5月/プレタポルテ部門のヴィヴィドを設立し、既製服ビジネスをスタート

1965年
・1月/ニューヨークで初の海外コレクションを発表。米「ヴォーグ」誌で「EAST MEETS WEST(東洋と西洋の出会い)」と評される

1967年
・3月/日本航空客室乗務員の制服をデザイン

1969年
・2月/米国で「ハナエ・モリ フレグランス」を発表 資生堂と提携

1970年
・7月/ジャンボ機就航を記念して日本航空客室乗務員の制服をデザイン ミニドレスで話題となる
・10月/ニューヨークに現地法人を設立し、ウォルドルフ・アストリア・ホテルにブティックをオープン

1972年
・3月/ロンドン日本大使館でコレクションを発表

1975年
・11月/グレース公妃の招きによりモナコでファッションショーを開催 帰途、パリで初のショーを開催

1976年
・11月/パリに現地法人を設立

1977年
・1月/パリのモンテーニュ通りにオートクチュールメゾンをオープン。パリ・オートクチュール組合に属する初の東洋人として第1回オートクチュール・コレクションを発表 以後、オートクチュールおよびプレタポルテコレクションをパリ、ニューヨーク、東京で発表

1978年
・6月/東京・表参道にハナエ・モリビルがオープン
・11月/東京をパリ、ニューヨーク、ミラノに並ぶファッション都市にと、第1回「The Best Six」を主催。パリのティエリー・ミュグレー、ニューヨークのステファン・バローズ、ミラノのジャンニ・ヴェルサーチェ、ロンドンのジーン・ミュア、東京の三宅一生らと共に6日間のファッションショーを開催

1981年
・11月/朝日新聞社、WWD ジャパン出版社(当時)の共催により「The Best Six ‘82」を開催 パリのエマニュエル・ウンガロ、ニューヨークのビル・ブラス、ミラノのマリウチア・マンデリ(「クリツィア」創業者)、ロンドンのジーン・ミュア、東京の三宅一生らと共に参加

1982年
日中国交正常化10周年を記念して東京で開催されたメイド・イン・チャイナ・ファッションショー「5人の中国」に稲葉賀恵、川久保玲、松田光弘、山本寛斎らと共に参加

1985年
・6月/パリのフォーブルサントノーレにブティックをオープン
・12月/ミラノ・スカラ座でのオペラ「マダム・バタフライ」の衣裳を担当

1987年
・6月/劇団四季の「エビータ」の衣裳を担当

1988年
・4月/東京ドームのこけら落し公演「美空ひばり 不死鳥コンサート」の衣裳を担当
・9月/ソウル五輪でシンクロナイズドスイミングの小谷実可子選手のコスチュームをデザイン

1989年
・7月/デザイナー生活35周年を記念して東京で衣裳展「森英恵展」を開催
・10月/フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を受章

1990年
・モナコとパリで「森英恵展」を開催

1992年
・7月/バルセロナ五輪日本選手団の公式ユニホームをデザイン

1993年
・6月/当時の皇太子妃雅子妃の結婚の儀のローブ・デコルテをデザイン

1994年
・2月/リレハンメル冬季五輪日本選手団の公式ユニホームをデザイン

1995年
・7月/パリで香水「ハナエ・モリ」を発表

1996年
・11月/ファッション界で初の文化勲章を受章

1997年
・9月/日中国交正常化25周年を記念し、北京で「パリー北京―東京ハナエ・モリ ファッションショー」を開催

1998年
・5月/水戸市芸術振興財団理事長に就任

2000年
・4月/水戸芸術館開館10周年記念事業の一環として「森英恵展 東と西の出会い」を開催

2002年
・3月/ハナエ・モリが民事再生法の適用を申請 ハナエモリ・アソシエイツが設立
・9月/フランス政府からレジオン・ドヌール勲章オフィシエ叙勲

2004年
・7月/パリで開催したオートクチュール・コレクションを最後に引退(当時78歳)ショーの最後にウエディングドレスを着用した孫の森泉とともに登場しフィナーレを飾った(9月には東京・新国立劇場で同コレクションを開催)

2005年
・3月/「森英恵ファッション文化財団」を設立し理事長に就任

2006年
・3月/東京とパリ(10月)で衣裳展「森英恵 手で創る」を開催(2007年は島根で開催)

2012年
・7月/彫刻の森美術館、美ヶ原高原美術館の館長に就任

2019年
・9月/NHKスペシャル「AIでよみがえる美空ひばり」で新曲「あれから」の衣裳を担当

2020年
・2月/水戸芸術館開館30周年記念事業の一環として「森英恵 世界にはばたく蝶」展開催

2021年
・6月/展覧会「ファッション イン ジャパン 1945-2020 流行と社会」に出品
(島根県立石見美術館、国立新美術館)

2022年
・8月/逝去

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