山本寛斎事務所のクリエイティブ・ディレクター高谷健太とともに、日本全国の名品や産地を巡る連載“ときめき、ニッポン。”。8回目となる今回は、熊本県山鹿(やまが)市の伝統工芸品、“山鹿灯籠(とうろう)”について。
熊本県の北部に、山鹿という人口5万人ほどの市がある。同市には、電車の駅がない。いわゆる“陸の孤島”だ。しかし、1000年以上もの歴史ある山鹿温泉をはじめ、江戸時代の様式を今に伝える芝居小屋や、麹屋や造り酒屋が並ぶ石畳の街道など、素晴らしい景観に溢れ、訪れるたびに地域の魅力に触れることができる。
ここでは毎年8月、2日間にわたって“山鹿灯籠まつり”が開催される。和紙と糊だけで作られる伝統工芸品“山鹿灯籠”によって、町全体が幻想的な光に灯される、九州屈指の祭りだ。2016〜19年に山本寛斎がこの祭りのアドバイザーを務めていたことから、僕も山鹿には数えきれないほど通っており、今や第二の故郷のように思っている。
この山鹿灯籠まつりにおいて、とりわけ僕が心揺さぶられる行事が“千人灯籠踊り”と“奉納燈籠(上がり燈籠)”だ。千人灯籠踊りでは、日没後の黄昏時に、頭に金灯籠を掲げた約1000人の女性たちが、民謡の調べに乗せてゆったりと舞いを披露する。その姿がとても艶やかで、この世のものとは思えぬほど幽玄なのだ。その踊りが終わるころ、「ハーイトウロウ、ハーイトウロウ」という掛け声とともに、灯籠を乗せた約30基の神輿を大宮神社へと担ぎ込むのが、上がり灯籠だ。参道の向こうから掛け声が徐々に近づき、やがて神社へと遠のいていく様は、無常観というか、先祖の霊をあの世へと送り出す送り火のようにも感じられる。
山鹿灯籠の起源は、第十二代天皇の景行天皇が深い霧に遭遇した際に、山鹿の里人がたいまつをかかげて現在の大宮神社まで導いたという伝説に由来する。以降、毎年この神社に灯火を献上するようになり、室町時代に灯火から和紙で作られた金灯籠へと代わったそうだ。
そんな逸話のある山鹿灯籠は近年、より多くの人にその価値を届けるため、アロマディフューザーや縁起飾りといったインテリアにも活用されている。2016年には、われわれも「日本元気プロジェクト」のステージで、衣装の一部に使用した。現在8人の“灯籠師”によって受け継がれており、ここでは最も若い中村潤弥さんに、その歴史とこれからを聞く。
高谷健太(以下、高谷):中村さんにとって山鹿灯籠まつりとはどのような祭りなのでしょうか?
灯籠師の中村潤弥(以下、中村):多くの人には千人灯籠踊りでなじみ深いと思いますが、歴史的には室町時代から続く上がり燈籠の方がずっと古いものになります。江戸時代になると、商工業で成り上がった富豪たちがより豪華な灯籠を灯籠師に作らせようと、現在のような創意工夫に富んだ灯籠が奉納されるようになったそうです。その後、昭和30年代頃になって、地域の人々が山鹿灯籠の復興を願い、祭りをさらに盛り上げるために千人灯籠踊りが生まれました。
高谷:豪商たちが町内ごとに競い合うようにして灯籠の技術も発展していったんですね。
中村:はい、そうです。江戸時代から昭和初期にかけては80ほどの団体・町内から、100基以上の灯籠が奉納されていたとも言われています。個人的には工芸品としての美しさはもちろん、街の文化として今も山鹿の人々に根付いていることが一番の魅力だと思います。
金属にも見みえる繊細な灯籠
重さはわずか卵1個分
高谷:中村さんはどのようなきっかけで、灯籠師になろうと思ったのですか?
中村:工作がもともと好きで、中学校の授業で山鹿灯籠づくりを体験したことがきっかけで興味を持ちました。生まれも育ちも山鹿ですが、大宮神社周辺の中心部ではなく、山鹿灯籠に親しんでいたわけではないんです。
高谷:そうだったのですね。僕も初めて金灯籠を見て、触れたときの衝撃は忘れません。繊細で美しい造形はもちろん、金属にしか見えないのに、あまりの軽さに驚きました。紙のわずかな厚みを貼り合わせて作られているんですよね?
中村:金灯籠でいえば、手すき和紙だけで作られています。中は空洞のため、重さは卵1個分くらいです。曲線部分に糊しろを作らないことで、ひずみのない美しい形に仕上がります。
高谷:卵1個分!?まさに熟練の技術ですね。
山鹿の「今」と「未来」
高谷:僕は2020年に逝去された中島清灯籠師とも交流があり、生前は「匠の技術とか言われても、使ってもらわないと意味がない。山鹿灯籠の技術を使って、ランプシェードをつくるのが、私の夢だ」と語っていました。いつも寡黙な中島灯籠師が、「売れるかな?」と笑みを浮かべていたことが今でも忘れられません。
中村:昔は市場向けに金灯籠しか作っていませんでしたが、7年ほど前からインテリアとしてモビールを販売し始めました。今はアロマディフューザーや縁起飾りなど、普段の生活に取り入れられるアイテムにまで拡大しています。工芸品に機能を持たせたことで、セレクトショップやアパレルブランドとの取引も増えているんです。
高谷:いい流れが生まれていますね。
中村:伝統工芸品としてではなく、純粋に「欲しい」と思い手に取ってもらえる商品ができたことは、山鹿灯籠にとって大きな進歩です。地元でも、20〜30代の同世代が、結納品や新築祝いとして縁起飾りを選んでくれることも多くなりました。人生の節目に、地元の伝統技術を取り入れた商品を選んでもらえるのは、とてもうれしいです。
高谷:先日、知人のバイヤーさんに山鹿のアロマディフューザーをご紹介したところ、目の前で全種類購入されておりました(笑)。中村さん自身も、人気漫画「ワンピース(ONE PIECE)」の“ゴーイング・メリー号”や、スタジオジブリの映画「天空の城ラピュタ」のラピュタ城を山鹿灯籠で制作するなど、作品の幅を広げていますね。
中村:「ワンピース」とジブリのファンなので、いつか作ってみたいと思っていて。夢がかなってうれしかったです。そもそも、山鹿灯籠を神社に奉納するのも、皆さんに見物してもらうことが目的だから、面白いと思ってもらう物作りは、山鹿灯籠の根幹にもあるんです。
高谷:なるほど。以前、青山の「スパイラルビル」で商品を拝見したときにも、山鹿灯籠の技術を生かしたさまざまなプロダクト開発をされていました。今後挑戦したいことはありますか?
中村:まずは灯籠師としての仕事を確立させていきたいです。きちんと商売を成り立たせないことには、伝統も技術も残していくことは難しい。いくら後継者を育てても、仕事がなければ後に続きませんから。何百年も続いてきた文化を、僕の代で終わらせないためにも、“残すだけ”ではなく時代に合った作品や商品を作っていきたいです。
山鹿に見る真の「豊かさ」とは
国内外の都市から秘境の地まで、さまざまな場所に足を運んできたが、こんなにも魅力に富んだ場所を知らない。“山鹿灯籠まつり”はもちろん、僕にとっては残りの時期もときめきでいっぱいだ。目が合うと大きな声で挨拶をしてくれる子供たちがいて、古墳を訪れたら、1500年前の先祖と現代に生きる人々が地脈で繋がっていることを確かに感じる。生前寛斎も、「山鹿にある豊かさは、目に見える華美さではなく、日々の営みの中にある」と言っていた。それは、山鹿の市民にとっては当たり前の日常かもしれないが、今の時代において本当に貴重で、特別なものだと思う。