アトモスの創業者・本明秀文さんの独自の目線と経験から、商売のヒントを探る連載。フットロッカーが傘下「アトモス(ATMOS)」のアメリカ事業撤退を発表した。アトモスのNY店があるハーレムは、マンハッタンにおけるブラックカルチャーの中心地。本明さんが「人生そのもの」と語るその店は、2005年にゼロから店を作り、人間関係を築いていった“スニーカーライフ”の象徴のような店だ。今では想像がつかないけど、アトモスは13年まで、原宿とこのNYの2店舗だった。今のアトモスの礎を築いた店と言っても過言ではない。本明さんに心境を聞いた。
本明秀文・アトモス創業者(以下、本明):フットロッカーがアメリカのアトモス全3店舗を閉店する。来年の1月末まで。会社を売った僕が言える立場ではないけど、やっぱり寂しいよね。
――特にハーレムのアトモスは18年間も営業していたことになりますね。
本明:フィラデルフィアとワシントンD.C.のアトモスは、20年にアメリカのパートナーであるジョン・リー(John Lee)と合弁会社を作って、ジョンの店だった「ユービック(UBIQ)」の屋号を変えただけだから日が浅いけど、05年にオープンしたハーレムのアトモスは思い出がたくさんある。当時は、ハーレムに店を出した日本人なんて誰もいなかったし、今みたいにアメリカで知名度もなかったから、現地の人たちには“変な店”だと思われていた。オープンしてしばらくは、「ナイキ(NIKE)」のアカウント(正規取扱店として取引するための口座)が開かなかったから、最初の頃は日本から並行輸出してスニーカーを売っていた。ハンドキャリーで持っていくこともあったし、07年に“エレファント(アトモス別注のエア マックス)”を200足輸出しようとしたら、税関で止められて大変だったこともある。そんなことをしていたもんだからナイキUSにも目を付けられた。「何やっているんだ!」と文句を言われながら何度も交渉して、やっとアカウントが開いた。それでも高い家賃と人件費で利益を出すことがなかなか難しく、最初の5年間は年間3000万〜5000万円の赤字。日本の利益をアメリカに送金してやっと成り立つような状態だった。だけど原宿駅の駅看板に広告を出すと1年契約で1500万円かかることを知って、それならNYに店がある方がかっこいいじゃんとか思いながらやっていたんだよね。
――そもそも、なぜハーレムだったんですか?
本明:やっぱりスニーカーの本場はブラックカルチャーだからね。僕が37年前(当時19歳)に初めてハーレムに行ったとき、白人は1人しか見かけなかった。でも街中では常に音楽が流れているし、見たことないようなソウルフードが食べられて、しゃれた店も多いからとてもワクワクしたよ。だからNYに店を出すならハーレムがいいと決めていた。当然コミュニティーも何もないから一人で運営するのは絶対に無理だけど、ジョンが手伝ってくれた。ハーレムでは週末になると観光客がゴスペルを聴きにくる。若い子たちがその人たちに向けて、CDを15ドル(約2235円)で手売りするんだけど、朝、店に来て「CDを売って金を作るから、そのスニーカーをキープしといて」とか、そういうやりとりをしながら、ローカルの人たちとも顔なじみになっていった。エイサップ・モブ(ハーレムで結成されたヒップホップ集団)のクルーやボブ・マーリー(Bob Marley)の孫もスタッフとして働いてくれていた。スパイク・リー(Spike Lee)からドラッグディーラーまで顧客。場所を通して人間関係が生まれていった。
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