PROFILE: 小野圭一/J.フロント リテイリング社長
大丸松坂屋百貨店やパルコを傘下に持つJ.フロント リテイリング(JFR)の新社長に3月1日付で小野圭一氏(48)が就任した。前任の好本達也氏から約20歳、大手百貨店グループの社長と比べても一回り若いリーダーの誕生は、小売業界やファッション業界に大きな驚きをもたらした。総額売上高1兆1310億円(2024年2月期見通し)の小売りグループを任された小野氏とは、いったいどんな人物なのか。
WWD:JFR前社長の好本達也氏(現取締役)は、小野さんについて「物事を俯瞰(ふかん)してみる力がある」と語っていた。
小野圭一社長(以下、小野):入社後まず勤務した大丸梅田店での経験が大きかった。ネクタイ売り場に配属されたものの、わずか2年半で販促に異動した。通常はもっと長く営業部門で接客や商品管理を経験させてからミドル部門に異動するため、かなり珍しい人事だった。いま振り返ると、最初のターニングポイントだった。
WWD:販促で頭角をあらわした?
小野:そんなうまい話はない。梅田において大丸は、圧倒的に強い阪急、独特のキャラを持つ阪神に次ぐ3番手の百貨店だった。大丸神戸店のような地域一番店には潤沢な販促予算がある。販促担当はたくさんのアイデアを実現できるし、自ら企画しなくても外部の企画会社に任すことができる。一方、大丸梅田店は弱小店舗だから予算が少ない。上司は「金がないなら頭を使え」と突き放す。若いときに恵まれない環境にいたことが、却ってよかったのかもしれない。とことん考える癖がついた。
WWD:当時の印象に残る仕事は?
小野:徹底的に調べて、企画会社を通じず、飛び込み営業を繰り返した。よく覚えているのが正月の福袋だ。プロ野球の始球式で投げられる権利を企画した。今でこそ一般の人が始球式でマウンドに立つ姿は珍しくないが、当時は芸能人にほぼ限られていた。僕は阪神ファンだけど、阪神百貨店の手前、タイガースには営業できない。神戸を拠点にしていたオリックス・ブルーウェーブの球団に電話し、広報担当に売り込んだ。始球式の権利だけでなく、カメラとビデオで撮影し、球場のオーロラビジョンに勇姿を映し、好きな選手のボールとバッドもプレゼントし、試合を特等席で観戦して特製弁当もつける。価格は11万1111円。新聞やテレビでもたくさん紹介された。300人ほどの応募があった。
WWD:まだ20代半ば?
小野:そう。ミドル部門の若手に対し、周囲の目は厳しかった。販促担当として譲れない意見を売り場の先輩方に伝える場面も出てくる。自信を持って考えた企画が総スカンを食らい、落ち込むことが多かった。若くて生意気だったのかもしれない。どうやったら円滑にコミュニケーションが取れるか、悩みに悩む毎日だった。正論で押し通せるほど甘くない。ある人にはロジカルに説明する。別の人には浪花節で頼み込む。また別の人には、興味を持ってもらえそうなストーリーを考える。そんなことを繰り返すうちに、ようやく耳を傾けてもらえるようになった。先ほどの福袋のように「あいつ、面白いこと考えるな」と認められる。潮目が変わった。「小野に相談しようか」という空気が徐々に生まれた。
WWD:周到に考えを巡らせて周囲を巻き込むようになったと。
小野:(販促という)役割を与えられたことが大きい。一つの売り場を長く担当するキャリアを積めば、そのカテゴリー、その業界についての知識は深まるだろう。僕の場合、店舗全体の視点で考える癖が若い頃に身についた。
上司にも恵まれた。梅田店の上役だった村田荘一さん(後にJFR常務)は恩師の一人だ。会議では「君がちゃんと(紳士服飾部を)指導しないのが悪い」とよく叱られた。村田さんは直属の部下である営業担当ではなく、なぜか販促担当の僕ばかり叱る。あえて僕に強く当たることで、営業担当を奮起させようとしていたと分かるのは、だいぶ後になってからだ。上に立つリーダーは嫌われ役を引き受けてでも、メンバーの成長を促さなければない。そんなことを村田さんから教わった。
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