PROFILE: イ・スラ/小説家
2024年ノーベル文学賞に韓国の作家ハン・ガンがアジア人女性として初選出され、韓国文学の勢いはますます加速している。その中で、23年に韓国読者が選ぶ若い作家1位となり、日本でも話題の小説「29歳、今日から私が家長です。(以下、29歳)」(清水知佐子訳、CCCメディアハウス)の著者イ・スラが、11月23日と24日に神保町で開催された「K-BOOKフェスティバル 2024 in Japan(以下、K-BOOKフェス)」に初来日した。
初めての小説「29歳では、家父長制に代わる新たな家族の形「家女長(娘が家長)」を提案し、ドラマ化も決定。その革新的な視点は、書店「Yes24」の読者投票で5万票以上を集め、「韓国文学の未来を担う若い作家」第一位に選ばれた。
既存の枠組みに捉われず、自分らしい生き方を表現するスラに、作家としてのインスピレーション源や、家族観をどのように捉えているか、今後の作品に対する展望などを聞いた。
――K-BOOKフェスのサイン会は長蛇の列でしたね。男性ファンも多かったと聞きましたが、来場者とどのような会話をしましたか?
イ・スラ(以下、スラ):日本人だけでなく、在日コリアンや日本に留学中の韓国人の方々もいました。一番多かった感想は「家族、特に母親との関係性をもう1回考え直した」「勇気をもらった」という言葉でした。「一緒に暮らしていると喧嘩が多くなるから、離れて暮らしている。でも別々に暮らしていると仲は良くなるけど、寂しい」という声も多かったですね。私の父親と同年代の男性たちから、家長という役割から解放されたいという気持ちが感じられたこともとても印象的でした。
家族というテーマは普遍的であり、そもそも家族が一緒に暮らしていくことは簡単なことではありませんよね。日本でも母子の関係で悩みがあり、新しい家族のあり方、女性の新しい生き方が求めらているんだなと感じました。
――家族が同居しながら仲良く暮らす方法はありますか?
スラ:「29歳」の中でスラが家族と仲良く過ごせる理由の1つは、血縁関係だけにとどまらず、娘が社長で父母が社員という雇用関係があるからです。この仕事の関係性が、お互いに礼儀や節度を保つ基盤を作っています。さらに、この家族は共通の認識として、家族間でもさえ完全に分かり合えないことを理解していることも、良い関係を築くための一因となっています。
――スラさんは既婚者ですが、社会制度としての結婚をどのように定義されますか?
スラ:元々結婚に対する幻想はなかったので、ウエディングドレスを着たいとも思いませんでしたし、結婚はしないだろうと考えていました。でも、信頼できるパートナーと出会い、一緒に過ごすうちに、自然と心地よさを感じるようになりました。パートナーは礼節を重んじるタイプで、互いに尊重し合い、支え合う関係が築けることの大切さに気づきました。そんな日々の中で、結婚に対する考え方も少しずつ変わっていきました。どちらかというと、パートナーがいわゆる妻的な役割を担い、私は夫的な役割を担っています。今はその役割分担でうまくいっていますが、今後はその境界線をもっと曖昧にしていきたいと思っています。
私たちはたまたま異性愛者同士だったため、現在の結婚という制度を比較的簡単に受け入れることができました。一方で、先日対談をしたファン・ソヌさんは(異性愛者として)女性二人で暮らしていますし、他にも友人同士の同居や同性カップルで暮らしているケースもあります。結婚という制度に縛られず、生活のパートナーとして共に暮らすための制度は、まだまだ整っていないのが現実です。物語を通じて、既存の制度に疑問を投げかけることは、今後も続けていきたいと考えています。
――「29歳」 は新しい生き方を提案しつつ、自己主張の押し付けがなく、包容力と軽やかさで反発を引き起こさずに人々の耳を引き寄せます。執筆の際に意識したことを教えてください。
スラ:文体のリズムを一番大切にしました。ずっと読んでいたくなるような、書き手の声が聞こえてくるような文章を意識しました。同じテーマを扱っても、その作家によって発せられる声は違い、それぞれに独特の響きを持っています。そういう自分にしか出せない“声”を追求していきたいですね。
20代の頃に子どもたちに文章を教える教室を運営していました。私自身も文章の作成と朗読をしていたのですが、長文だとすぐに飽きてしまう子が多かったんです。それで、短く簡潔で、なおかつ面白おもしろく伝えることを意識していました。こうした工夫がリズムの良い文章を書くことに繋つながったのかもしれませんね。この本を通じて、読書が身近でない人たちにも楽しさを感じてもらえたら嬉しいです。
――この作品を書くうえで、影響を受けたものはありますか?
スラ:子どもの頃に祖父と一緒に見た韓国の家族をテーマにしたドラマ、や日本の「逃げるは恥だが役に立つ」からインスピレーションを得ました。家事労働は報酬を伴う専門的な仕事であると、このドラマを通して強く実感しました。
限られた登場人物たちの中で物語が展開するという点では、アメリカのシットコム(シチュエーション・コメディ)「オフィス」が参考になっています。現実では問題に直面すると立ち直るまでに時間がかかりますが、シットコムの主人公たちは常に新しい出来事が常に起こるため、立ち直りが早く前向きです。どんな人にも弱さはありますがその部分はあえて描かない、積極的に未来を切り開く物語が好きです。
――現在は、ドラマ化が決定した「29歳」 の脚本を執筆されているそうですね。原作に近いもの、あるいは派生物として新しい発展があるのでしょうか?
スラ:予定よりも少し時間がかかっていますが、来年にはキャスティングに入りたいですね。原作には、主人公が乗り越えるべき大きな葛藤はありませんでしたが、ドラマでは主人公が予想外の困難に立ち向かう様子や、家族の興味深い秘密が次第に明らかになっていく展開を描くことで、物語に深みを持たせるつもりです。
家女長として成長していく過程をしっかり描くために、苦しい時期を乗り越えてきたこと、弱さや未熟さをきちんと描くことが必要だと思います。
――娘が家族を支えるという新しい考え方を提唱し、韓国をはじめ台湾や日本でも注目を集めています。そうした立場に対してプレッシャーを感じることはありますか?
スラ:新しい価値観の先駆者として取り上げられることに、負担を全く感じないわけではありません。それでも、誰にも読まれないという状況を避けるため、多くの人に届けることを最優先に考えています。誤解なども受け入れる覚悟で、読んでもらうことを目指しています。
――スラさんはファッションアイコンとしても人気ですが、イベントやSNSの投稿でも、個性的で流行に捉われない着こなしが印象的です。
スラ:子供どもの頃から20代まで、母がユーズドショップを経営していた影響で、古着をよく着ていました。その中には日本の古着もあって、いろんなコーディネートやスタイルを楽しみました。自分の好きなものを自由に着る感覚はその時に培ったのかもしれませんね。
――ファッションやヘアスタイルは個性を表現する要素のひとつでありながら、表現方法はリアルからバーチャルまで益々多様化しています。スラさんにとって、「自己表現」とはどのようなものでしょうか?
スラ:若い頃には多くの人が似た経験をするかもしれませんが、10代の頃は外見に対するコンプレックスが強く、鏡を見たくありませんでした。韓国ではアイドルのように痩せていて、目鼻立ちがはっきりした人が理想とされる価値観も関係していました。
外見に対する不安を抱えていた私が、自分らしく生きるきっかけをつかんだのは、作家になる前の絵画のヌードモデルの経験です。美大へ行き、油絵を描く人たちのモデルをしながら気づいたのは、彼らの絵に映る人物が不思議と書き手自身に似ていることでした。他人を見ているようで、実は自分を投影している人が多いのだと気づいて以来、周りの視線を気にしすぎず、心が軽くなりました。
今でも人が、コンプレックスや足りない部分をどうやって補完するのかにはとても興味があります。
――生活に豊かさを感じる瞬間はどんな時ですか?
スラ:自分らしく自然体で過ごせるようになったのは30代に入ってからで、それが豊かさを感じる瞬間でもあります。心が安らぐのは、仕事が終わって、ベットに入りパートナーとNetflixを楽しんでいる時です。ただ、うまく書けなかった日は気持ちが沈んでいます。
――作家、ハン・ガンさんのノーベル賞受賞で、さらに世界的に韓国のカルチャーに注目が集まっています。
スラ:ハン・ガンさんの受賞は、私にとっても本当に嬉しいニュースでした。年々、書籍を手に取る人が減っている中で、世界中で韓国の文学が注目を集めている状況に勇気をもらいました。
私の作品も、イタリア、スペイン、アメリカなどから翻訳版権の依頼が届いています。海外でも、経済的に成功した子供たちが親の生活の面倒を見る機会が増えていると聞いています。でも「家女長」というテーマはこれまであまり扱われてこなかったようですね。先日会ったイタリアの出版社代表の女性から「私は家女長だ。この版権を絶対に買いたい」と言われました。
――今後は、世界を意識して作品を書かれていくのでしょうか?
スラ:世界を意識して創作活動を始めたのは、今年に入ってからです。日本や台湾の読者の方々と交流したり、欧米の出版社との翻訳版権の交渉にも立ち合ったことで、自分の作品が世界に届いていく感覚を覚えました。
日本の読者と話して驚いたのは、韓国語が上手な日本人の方が多いことでした。とてもありがたいですし、言語を超えたつながりを実感します。欧米での交渉では、英語を使うことが当然視されているように感じ、英語圏以外の文化や背景への配慮が欠けているように思う場面もあります。それは、国際的な優位性を意識した態度とも受け取れますね。そういった経験から、自分の作品も含めて韓国文学に対する関心の高まりを実感すると同時に、改めて母国語や自国の文化に対する自負心も芽生えました。
過去に私たちが西洋諸国からさまざまなカルチャーを学んだように、これからは私たちの豊かな文化がもっと広く理解され、楽しんでもらえたら幸せです。
――韓国特有の文化を取り上げた方が、世界に対しておもしろい物語が書けるのでしょうか?
スラ:そうかもしれませんね。韓国の生活、私たちの日常を書くことはとても大切です。一方で、自国のことを書くにはその状況を俯瞰して見直す作業も必要ですよね。私のパートナーは、20〜30代をアメリカで過ごしていたので異なる文化圏の価値観を持っています。外の視点をもつ人と暮らしていると、自分では気づくことのなかった韓国特有の文化や価値観を自覚させられる瞬間も多くあります。
とても身近なことで例をあげると、スーパーのレジ待ちで、人との間隔が一番狭いのは韓国だと聞きました。皆、せっかちで早く会計を済ませたいんですね(笑)。
TRANSLATION:HWANG RIE