数年前、“オールアバウト菊池武夫”的な企画を当時所属していた媒体で担当し、著書を含め“たけ先生”のことをなかなかに勉強した。日本人の海外渡航が当たり前ではない1960年代に世界を一周し、現代の僕らには想像もできないくらいまぶしいモノ・コト・ヒトに出会い、帰国後それらを糧として日本人によるメンズ服を確立した。妥協のないモノ作りやショーにまつわる(ときに鬼気迫る)“伝説”は数多く、僕と同世代の小木基史ユナイテッドアローズ バイヤー兼ユナイテッドアローズ&サンズ・ディレクターは協業に際して「とても光栄なことだが、それ以上にとても緊張した……」と語っていた。
反面、たけ先生本人の物腰はとんでもなく柔らかく、そこに逆に「百戦錬磨のただ者ではない感」を感じたりもする……。僕はといえば「他人の家で、住人以上にリラックスできる」ずうずうしさを自覚していることもあり、前述の企画進行中には打ち合わせと称して、また校了後には打ち上げ、その後は忘年会だ誕生日会だと理由をつけては夜会をご一緒させてもらっている。
“呑み助”の僕は、ファッション業界で自分より呑む人をあまり知らないのだが、78歳のたけ先生は僕と同じ(ときには僕以上の!)ペースで御酒(ごしゅ)を嗜む。それでいて「普段はほとんど飲まない」とあっけらかんと言う。なるほど、たけ先生の書いた『菊池武夫の本』(マガジンハウス刊)にも1968年にオープンした東京・赤坂のディスコ、ビブロスをはじめとするきらびやかなナイトライフが記されているが、「頭は常にクリアだった」という。今でも「酒の誘いを断わることはない」そうだ。
希代の社交家で人たらしのたけ先生の下には、子どもや孫ほども年の離れた“仲間たち”が集まる。笑顔と気遣いを絶やさず、それでいてたけ先生は彼らから貪欲に刺激を受け続ける。だからクリエイションの泉が枯れることはないし、「タケオキクチ(TAKEO KIKUCHI)」は常にアップロードを続けるのだ。
たけ先生と違って凡人の僕は、酔っ払ったらその日の記憶はほとんどないのだが……、たけ先生が何を着ていたのかだけは鮮明に覚えている。いくつになっても格好いい、たけ先生。そのたけ先生に「こいつからも刺激が欲しい!」、そう思ってもらえるような仕事をしようと思う。そして、その仕事が終わったら、またたけ先生と呑みに行きたい(笑)。
素敵なたけ先生の素顔が垣間見える「たけ散歩」が、1月22日発売の「WWDジャパン」のファッションパトロールに掲載されている。ぜひ、ご覧いただきたい。