日本に比べ、一足早く2月上旬から新型コロナウイルスの感染拡大で大きな影響を受けた香港。アートを筆頭にしたクリエイティブ産業にどのような影響を与え、沈静化後はどうなるのか。水戸芸術館現代美術センターのキュレーターを経て、現在は香港のCHAT (Centre for Heritage, Arts and Textile)でエグゼクティブ・ディレクターを務める高橋瑞木氏による連載4回目をお送りする。
欧州、アメリカに続き、日本でも新型コロナウィルスの感染が拡大している。香港は2月上旬から学校を閉鎖、多くの企業も在宅勤務となったため、3月半ばには一瞬緊張感もゆるみ、事態がこのまま収束するのでは、という期待もあった。だが、3月末に再び感染者数が増加し、香港政府より映画館やジムや運動施設の閉鎖が命じられ、香港への一層厳しい入国制限も実施されることになった。当然のことながら展覧会のオープニングやコンサートなども概ね延期か中止。この連載も本来なら毎月香港を中心にアジアのアートやテキスタイル事情をお伝えすることになっていたし、3月の香港は通常なら世界で最も権威あるアートフェア、アートバーゼル香港(ART BASEL HONGKONG)が大々的に開催されるため、1年のうち最も活気づく時期なのだが、開催の1ヶ月前にキャンセルが伝えられ、フェアはオンライン上で開かれることになった。このキャンセルに伴い、多くのイベントやパーティーも中止。例年とはうって変わって3月の香港は静寂に包まれてしまった。
そんな中、実はCHATは自主隔離や入国制限の方針が厳しくなる前のギリギリのタイミングで春のグループ展「Unconstrained Textiles: Stitching Methods, Crossing Ideas(自由なテキスタイル:縫い合す方法、交差する思考)」をオープンすることができた。中国で制作していた新作や、ニューヨークからのシッピングが設置スケジュールに間に合うかどうか、ギリギリまでわからないことだらけだったが、意外にも輸送手続きはスムーズに進み、作品は無事ギャラリーに運び込まれた。作品設置やパフォーマンス、トークイベント参加のために来香予定だった7人のアーティストのうち5名の渡航はキャンセル。インスタレーションはZoomやWhatsAppを駆使しながら遠隔で作家と確認を取りながらおこなった。参加作家のひとり加藤泉は、日香港が日本を入国禁止指定国に指定する直前になんとか香港に滑り込みで到着。香港で入手したファブリックを用いた新作の絵画作品と最大8メートルを超す大型の絵画、そして屋上庭園に石と植物でつくるインスタレーションを設置した。
各国で開催されるビエンナーレやトリエンナーレに引っ張りだこの香港出身のサウンド/ヴィジュアルアーティスト、楊嘉輝(サムソン・ヤン)は中国に古くから伝わる道教の八仙の物語に着想を得て制作したパフォーマンスをヴィデオインスタレーションに展開。パフォーマンスに登場するミュージシャンが着用したコスチュームはサムソンがデザインし、CHATのテキスタイルチームが作成した。展覧会ではコスチュームの展示に加え、コスチューム制作の際に出た余り布を使ってヴィデオを上映するテンポラリーのシアターを設営した。
サムソンは引き続きCHATのテキスタイルチームとタッグを組み、限定発売のトレーナーをデザインすることになっている。この二人に加え、建築の装飾モチーフをテキスタイルのパターンに応用し、映像や平面作品、インスタレーションを制作している中国の若手作家ビ・ロンロン(毕蓉蓉、Bi Rongrong)は、LEDのエンジニアとコンピュータープログラマーと共同で制作したLED内蔵のかぎ針編みの作品や、H&MファウンデーションとHong Kong Research Institute of Textiles and Apparel(HKRITA)が共同で開発・運営している衣料リサイクル工場のニッティングの機械で制作した新作による、いわば「テキスタイルパターンの実験室」的空間インスタレーションを発表している。
ひっそりと開催されたプレスとVIPの内覧会では、来場者はレセプションで検温をしてから入場。またサージカルマスクの着用も義務付け、もし来場者がマスクを着用していなければCHATが提供した(ちなみに現在香港ではアルコール消毒液やサニタイザーはコンビニでも購入でき、サージカルマスクも普段よりはるかに高額だがドラッグストアなどで入手ができる。トイレットペーパーはスーパーで問題なく買える)。
開幕直後に香港の政府によって公共施設の臨時閉鎖が発表されたため、CHATも現在は臨時休館中だが、CHATに限らず香港のアート業界のたくましいところはすでに数ヶ月後を見据えた活動が始まっているところだ。直近では、ギャラリスト、非営利の文化施設、オークションハウスなど、アートインダストリーの女性たちが組織横断的に関わるプロジェクト「アートパワー香港(ART Power HK)が立ち上げられた。これは5月ごろになればコロナウィルスの感染がある程度収束しているだろうというある種の楽観的な予測に基づいたプロジェクトだが、現在のところ5月を「アートパワー香港」月間として、香港中で開催が予定されているアートイベントの情報を共通のデジタルプラットフォームでまとめて紹介するとともに、5月まではアーティストやキュレータートークのイベントをデジタルプラットフォームで展開していく。CHATも遠隔でヴァーチャルに参加できるアートプログラムを構想中のほか、この機会に常設展示のヴィデオツアーや、Zoomを使ったアーティストトークを企画中で、閉館中だがスタッフは大忙しでコンテンツづくりに励んでいる。ともあれ、非常時にもかかわらず、それぞれができることをやりつつ、商業ギャラリー、非営利の美術館にかかわらず、全体としてアート業界を盛り上げていこうと即時にプロジェクトを立ち上げる香港の機動力と結束力には感心するばかりだ。
4月3日現在の香港は、とにかく人が集まる場所に行ったり、大勢での食事を抑制する雰囲気に包まれている。筆者が住む近所にはバーやレストランが集まる地区があり、週末の夜は遅くまで賑やかだったが、その喧騒も今は消えた。しかし、人々は特にパニックにもならず、現状を淡々と受け入れながら生活を送っている。とはいえ、ここ数年、イケイケドンドンのバブルだった香港の都市がまとっていた熱気も、去年の抗議運動に続いてこの新型コロナウィルスの問題で急速に冷却された。とりわけ、香港はアジアと欧米を結ぶハブ的な役割を果たしてきたので、香港外からの訪問客の激減がホスピタリティ産業に莫大な経済ダメージを与えているのは明らかだ。しかし、当分長引くであろう在宅勤務モードを見込んで、屋内エクササイズグッズの売り上げは好調のようだ。
この新型コロナウィルス問題がひと段落したころ、この都市はどうやって復活を遂げていくのか、今はその様子を静かに見守りたいと思っている。と、ここまで書いたら外がなにやら騒がしい。窓を開けてみると、周りのマンション中から拍手が。「金曜日の夜8時、新型コロナウィルスと闘ってくれている人々に感謝の拍手を送りましょう」。すでにヨーロッパやアメリカではおなじみの光景が香港でも繰り広げられていた。うーん、このノリのよさ。香港のたくましさを垣間見たような気がした。予想外の展開になってしまったこの連載、次回は在宅で展覧会やアート作品を楽しめるコンテンツを紹介できればと思う。
高橋瑞木(たかはし・みずき)/CHAT(Centre for Heritage, Arts and Textile)エグゼクティブ・ディレクター:ロンドン大学東洋アフリカ学学院MAを修了後、森美術館開設準備室、水戸芸術館現代美術センターで学芸員を務め、2016年4月CHAT開設のため香港に移住。17年3月末に共同ディレクターに就任、20年3月から現職。主な国内外の企画として「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」(2009)「新次元:マンガ表現の現在」(2010)「クワイエット・アテンションズ 彼女からの出発」(2011)「高嶺格のクールジャパン」(2012)、「拡張するファッション」(2013、以上は水戸芸術館)「Ariadne`s Thread」(2016)「(In)tangible Reminiscence」(2017、以上はCHAT)など