茨城県・水戸芸術館現代美術ギャラリーで2月22日~5月6日の会期で開催予定だった展覧会「森英恵 世界にはばたく蝶」ですが、開催早々に新型コロナウイルス感染拡大の影響により3月いっぱいまで中止となり、その後4月から再開したのもつかの間、5月10日までの休館が決定したことで同展覧会は終了となりました。森英恵デザイナーの軌跡をたどる展覧会を楽しみにしていた方に、オープニングの際に取材した内容をお伝えすることで、本展や森英恵デザイナーの知られざる一面をお伝えできれば幸いです。
森英恵は島根県六日市町で開業医の父と母のもと、5人兄弟の次女として生まれます。兄が2人、姉と妹がいました。父は大阪大学の医者でしたが、そこに入院してきた女性に恋をして、退院後、女性の故郷である島根まで追いかけた男性が父、その女性が母だそうです。このロマンチックなお話は、オープニングにいらしたご家族が教えてくれました。母親の実家は地主だったため、父親は、医者、地主として島根に根付いたそうです。オーダーのスーツを着るセンスのよい父と、島根の自然の中で感性を育まれ、森英恵の代表的なモチーフである蝶もその自然がルーツなのだと後に語っています。厳格で教育熱心、そしてアートを愛するおしゃれな父。その影響で幼い頃から「装う」ということへの意識が芽生えたのでしょう。その後小学4年生のときに東京へ移住します。
それから月日が経ち、東京女子大学を卒業した英恵氏は1948年、戦時中に知り合った森賢と結婚。新婚生活3カ月で夫の帰りを待つだけの生活に飽きてしまい、ドレスメーカー女学院に通い始めます。出産をし子どもを育てながらも、服作りにのめりこみました。卒業後の51年、新宿に「ひよしや」を開店。若者が集まる街で評判の存在になっていきました。ある日、日活の担当者が映画の衣裳を作ってほしいと訪ねてきて、そこから映画の仕事がどんどん舞い込みます。50年代の日本映画全盛期に数百本にものぼる映画衣裳をデザインし、オファーが絶えない日々。映画のシーンや女優の演じるキャラクターに合わせて服を仕立てることで腕が磨かれていったと後に語っています。
ココ・シャネルが
「あなたには
オレンジが似合うんじゃないかしら」
仕事に追われて1日2~3時間しか睡眠を取れず、“女ナポレオン”と呼ばれるような生活の中、次第に燃え尽きていきます。そんな折、1カ月の休みをとって61年にパリ行きを決意。ショーのモデルとして渡仏する仲のよかったモデルの松本弘子に同行したのでした。ちょうどオートクチュールの新作発表シーズンで、ショーを見てまわります。中でもココ・シャネル(ガブリエル・シャネル Gabrielle Chanel)に大きな刺激を受けた森英恵は、自分のためにシャネル・スーツをオーダーします。「シャネル(CHANEL)」のサロンを訪れた初めての東洋人だったそうです。
サロンを訪れると「日本は日出づる太陽の国、だからオレンジがよいのではないかしら。黒髪にも合うと思う」とサロンで働くマダムを通してココ・シャネルに言われたそうです。ジャケットがオレンジだと派手すぎて保護者会には着用していけないため、オレンジはブラウスに生かし、スーツは落ち着いたベージュのツイードをベースに黒や緑、オレンジのネップを散らした生地にしたのでした。西洋人にとって、日本人のまっすぐな黒髪はとても魅力的に映ったのでしょう。
当時のことを森英恵は次のように振り返っています。「パリではココ・シャネルのコレクションが特に印象に残った。彼女の作品から、男性が作る服と女性が作る服の違いを強く感じた。男性デザイナーの作品は美しく、華やかな創造性を感じさせた。服の印象が強烈でモデルの顔が思い出せない。だが、シャネルのショーでは、あまり若くないモデルたちがシックに見えた。ドレスは体の線に沿うように作られ、スカートの丈は膝下。歩く姿は実にしなやかだった。服ではなく、中身の女がごく自然に引き立って個性的に見えた」(森英恵「この道」東京新聞 2007年8月13日掲載)。
パリで活力を取り戻した同年、ニューヨークを訪れます。歴史深いヨーロッパとは対照的に若さと勢いのあるアメリカのモードも見てみたいと思ったのです。今のように気軽に海外に行けるわけではなかった時代です。経営面をサポートしていた夫も後押ししてくれました。しかしそこで目の当たりにしたのは、粗悪品として売られるメイド・イン・ジャパンのブラウス。本来、高い美意識と伝統を持った日本のよさを伝えたい――そこでニューヨークでの作品発表を決意します。4年の準備期間を経て実現し、65年1月に開催したショーでは、蝶のプリントを大胆にあしらったドレスで挑戦し、アメリカでのデビューは高い評価を得ました。またデザインしたドレスが米国の社交文化にマッチしていたことも、飛躍を後押ししたのでした。
「1961年のアメリカへの旅は、いろいろな刺激を与えてくれた。長い和服の伝統がある日本で、洋服を作り続けても、行き詰まりは解消されない。ファッションの道を究めるには、世界に出て、西洋のデザイナーと同じステージで仕事するしかないと考えた。と同時に、日本に対するイメージを変えなければ、とも思った。日本は「安かろう、悪かろう」の品物を大量に作って輸出するだけの国ではない。「蝶々夫人」に描かれた、哀れで弱々しい女性像が、日本女性の典型だと思われたくない。「やるんだったら、アメリカだ」と帰りの機内でずっと考えていた(森英恵「この道」東京新聞 2007年8月21日掲載)。
70年にはニューヨークで現地法人を設立し、76年にはフラッグシップショップとなるファッション・ハウスをオープン。手の仕事にこだわり続けてきた森英恵は、77年にパリにメゾンをオープンし、同年、東洋人として初めてパリ・オートクチュール組合の会員となり、2004年までパリでオートクチュール・コレクションを発表します。最後のショーではウエディングドレスを着用した孫の森泉と一緒にフィナーレに登場したのが印象的でした。
オペラ「蝶々夫人」での
日本人の描かれ方に
「冗談じゃない」
パリ、ニューヨークと海外での経験を広げた森英恵でしたが、オペラ舞台「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」を観たことは、そのキャリアに大きく影響を与えました。「蝶々夫人」は明治の長崎を舞台に、アメリカ海軍士官と結婚した若き日本人女性、蝶々夫人の悲恋を描いたオペラ作品です。
「私にとって『マダム・バタフライ』は積年の思いが詰まった作品だ。初めて見たのは1961年。ニューヨークでの舞台だった(中略)。蝶々さんは操を立てていたアメリカの海軍士官に捨てられる。士官は正式に結婚したアメリカ人女性を長崎まで連れてきて、蝶々さんから子どもを受け取り、ラストで蝶々さんは自殺する。そういうストーリーなのだからしょうがないと言われれば、その通りだけど、当時の私は『失礼しちゃう』と抵抗を感じた。プッチーニの音楽は素晴らしい。でもなぜ日本女性の扱われ方がこうもひどいのか。冗談じゃない。こんな、哀れな、か弱いだけの女性像は日本の女じゃないと……。しばらくして私はアメリカのファッション界に進出した。意識的にデザインに取り入れたのが蝶だった。(中略)。あのオペラを見て反発し、それをバネに働いてきた私自身が、いつの間にか「マダム・バタフライ」と呼ばれる存在になっていた。だからこそ、これは私の仕事だと思って引き受けた(森英恵「この道」東京新聞 2007年6月27・28日掲載)。
その後、浅利慶太演出の「蝶々夫人」をミラノ・スカラ座で公演する際に、その衣裳を森英恵が手掛けることになります。1904年にイタリアで初演されたた同作は、85年公演で初めて浅利が演出したオールジャパンによる制作として実現したのです。61年にニューヨークで観た蝶々夫人に憤りを覚えて世界を駆け抜けてきた森英恵にとって、日本人スタッフで手掛けた同作は、純粋で芯の強い日本の女性が表現され、長年の思いが晴れたといいます。
そのような底知れぬバイタリティーと情熱で世界に知れわたるデザイナーになった森英恵。その歴史の中で、数々の映画衣裳、舞台衣裳、ユニホームを手掛けてきました。中でも、展覧会にも出品されていて、とても印象的だったのが美空ひばりの衣裳でした。
美空ひばりの
伝説の復活コンサートで
重さを抑えた衣裳をデザイン
不死鳥と深紅の花のドレスは、89年にこの世を去った美空ひばりが88年に東京ドームで行った復活コンサートで着用したものです。森はこの公演のために、体力に限界のあった美空ひばりのために重くならないよう細心の注意を払い、できるだけ重さを抑えた2着の衣裳をデザインしました。デザイナーとしての力量が問われる大きな仕事だったに違いありません。深紅と黒とゴールド、この力みなぎる色で作られた衣裳は、病と闘いながらも力強く歌い上げた姿と共に人々の心に刻まれたことでしょう。実際の衣裳を見ると美空ひばりはとても小柄でした。画面でとても大きく見えたのは、その存在感と衣裳の見せ方の技量によるものだったのかもしれません。
本展覧会で流れていた映像で忘れられない場面がありました。美空ひばりの没後30周年を迎えた2019年、NHKは「AIでよみがえる美空ひばり」として、AI技術によって美空ひばりを現代によみがえらせる挑戦を行いました。亡くなった後も04年まで毎年依頼を受けて美空ひばりの新しい衣裳を制作してきた森英恵は(京都にある美空ひばり記念館に2004年まで毎年新作が加えられていた)、このプロジェクトのために15年ぶりに新しい衣裳をデザインしました。
そのメイキング映像で、白衣を着た森英恵は美空ひばりのためにデザインした衣裳の最終チェックをしていました。美空ひばりの体形と同じモデルが実際に衣裳を着用し、動きを見るために歌を歌う仕草をしていたのですが、それをじっと見つめ、静かに目頭を押さえている姿がありました。「なんだか思い出しちゃってね」と小さな声で涙を浮かべていた様子が目に焼き付いています。プロとして、ファンに誠実でデザイナーに敬意を払う美空ひばりとの仕事は、森英恵にとっても幸せな時間だったといいます。きっとさまざまな思い出が胸に去来したのでしょう。そして現役でデザインをし、白衣でたたずむその姿はとても美しいものでした。
最後に2011年12月に出版された別冊太陽「森英恵 その仕事、その生き方」(平凡社)に黒柳徹子が寄稿した「憧れずにはいられない女性」の最後の一文を紹介したいと思います。「先生がこれまで大きな病気をなさらず、現役で仕事を続けてこられたのは、有名になりたいとか、成功したいといった我欲ではなく、衣服をつくる仕事を愛し、『なんとか日本の美意識や日本人の素晴らしさを世界に紹介したい』という心からの献身があったからだと思う。そして、その姿は気高くて美しい。世界のどこへ着て出かけても恥ずかしくないエレガントな服。『ハナヱ・モリ』の一番の要素であるエレガンスは、森先生自身が持っているエレガンスなのだと思う。私は、先生が大好きだ」。