「WWDジャパン」4月27日&5月4日号はユニクロ特集です。今回の特集の構成を組み立てる上でカギになったのが、特集を監修したジャーナリスト、松下久美さん(元「WWDジャパン」記者でもあります)の「ユニクロは今、“第6創業期”とも呼ぶべき転換期を迎えている」という一言。松下さんはユニクロを22年間追い続けており、「ユニクロ取材はもはやライフワーク」(本人談)。定期的に取材分野が変わっていくことの多い業界紙や経済紙記者の間ではこの長さは異例であり、2010年には「ユニクロ進化論」(ビジネス社)という本も出版しています。松下さんにユニクロとの22年間と、今回の特集の読みどころを聞きました。
WWD:そもそも、松下さんとユニクロの出合いは?
松下久美クミコム代表(以下、松下):1996年に日本繊維新聞というアパレルの業界紙に入社して、専門店や百貨店、量販店などをメインに取材を始めました。90年代後半から2000年代にかけての時期はジーンズカジュアル専門店が出店を加速して伸びた時期で、当時からファーストリテイリングの「ユニクロ(UNIQLO)」は売上高も店舗数も際立っていた。都心ではまだあまり知られていなかったけど、「ライトオン(RIGHT ON)」や「マックハウス(MAC HOUSE)」に比べても圧倒的に優良な地方チェーンがあるぞ、っていう感じでした。その頃はまだ山口県に本社があり、決算発表の時期にFAXで短信を送ってもらって、電話で取材をしていました。それが一番最初のユニクロとのやり取りの記憶かな。当時、FAX送付などの対応をしてくださっていたのが、今回の特集でもインタビューした柳井(正ファーストリテイリング会長兼社長)さんの後継者チームの中の一人、桑原(尚郎フロントエンド本部 本部長)さんです。本業がありつつ、広報も兼務している感じでしたね。
WWD:1998年に原宿店がオープンして「ユニクロ」は一気に全国区になりましたが、その前夜ですね。
松下:柳井さんに初めてお会いしたのは、原宿店のオープンの時です。バックヤードの段ボールに囲まれた中で、急きょ他紙と共同でインタビューができることになりました。その時から「『ギャップ(GAP)』『ザラ(ZARA)』『H&M』に並ぶ企業になりたい」と柳井さんはおっしゃっていて、志が高い企業だなと思いましたね。オープン当日に明治通り沿いに200人くらい行列ができて、メディア取材が殺到するようになった。原宿店オープンに合わせてフリースを看板商品として打ち出したんですが、それまではフリースって、主にスポーツブランドが手掛けていて、1万、2万円はする高い商品でした。それを1900円で出して、肌触りがよくてしかもいい色合いのものが多かったので、とても話題になりました。
WWD:価格設定だけでなく、売り方そのもの、ビジネス手法そのものが既存のアパレルとは異なり、業界にも世の中にも衝撃が走りました。
松下:アパレルの販売って、それまでは数千枚からせいぜい数万枚を売るというのが定石でしたが、ユニクロは「フリースを売る」となったら200万枚を仕込む。さらに、普通は前年の10%増、20%増といった具合に予算を組んでいくものなのに、翌年には850万枚、さらに次の年は2000万枚と、増産に次ぐ増産を行っていきました。部品として服を売り、人と同じ服を着ることに対する違和感をなくしていくという考え方も、売れると思ったものに賭けて、大量のプロモーションで売り込んでいくという手法もこれまでとは全く違いました。SPAモデルゆえに低価格なのに利益率が高い。その構造を誠実に伝えて、商品に対する信頼を勝ち取っていくビジネスのやり方全体をとても面白いと感じていました。
WWD:原宿出店からの飛躍を、松下さんは今回の特集で“第3創業期”と呼んでいます。
松下:広島に1号店をオープンしてからの草創期、本格的にチェーン展開を始めた第2創業期を経て、ユニクロがどーんと伸びたのは、1つはこの“第3創業期”のタイミングでした。モノ作りに対しては、丈夫さという意味での品質は当時から割と高かった。ただ、デザイン面はまだ無骨で平面的な感じでしたね。それらを変えて、本質的に良い服を作ろうと、ユニクロは99年以降「匠プロジェクト」を発足させました。日本の素材工場や縫製工場の熟練の職人を雇用し、中国の取引先工場に常駐させてより品質を高めていったり、「イッセイミヤケ(ISSEY MIYAKE)」や「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」などから企画やパターンの担当者を採用したり。そういう変化を見ていて、「ここは進化する会社なんだな」というのをすごく感じましたね。柳井さんも堅実さと大胆さを兼ね備えていたし、あとは玉塚(元一・現デジタルハーツホールディングス社長)さん、澤田(貴司・現ファミリーマート社長)さんのような、面白くて情熱的な人が集まっていました。
WWD:国内での知名度を得て、ユニクロは2001年のロンドン出店を皮切りに、海外にも出店していきます。
松下:私、ロンドン出店以来、海外出店の度に取材に行っていたんですよね。出張費用が下りなかったから、自費で(笑)。ニューヨークは06年にソーホーに出店したグローバル旗艦店が有名ですが、その前年にニューヨーク郊外のニュージャージーのモールに複数店出店していたユニクロ黒歴史がありまして(笑)。その時、現地プレスのみに向けて会見と内覧会が開かれていたんです。会見をやるみたいだという話はちらほら聞いていたけど、日本から来たメディアにはあまり見せたくないということなのか、現地のPR担当者がどうしてもはっきり教えてくれなくて。時間を見計らって、電車とタクシーを乗り継いで会場にたどり着いたら、もう会見は終わり間際。「ここまで来たのにこれじゃ記事にならない、どうしよう」って、そこから柳井さんに写真だけ撮らせてもらって、車寄せまで歩く間になんとかぶら下がりでコメントを取らせてもらいました。そうしたら、柳井さんが「松下さん、ここまでどうやって来たの?ニューヨークまでどうやって帰るの?」と。それで、「車、乗せてあげてよ」って、スタッフに言ってくださったんです。だったらと、図々しくも柳井さんの車に乗せてもらって、あらためてアメリカ進出の意気込みや、学生時代に世界を一周して感じた、アメリカへの憧れといった話を聞かせてもらいました。ここまで来てよかったな、と本当に思いましたし、柳井さんの心遣いにも感謝しましたね。
WWD:ユニクロが成長するタイミングを、自分の目でリアルタイムに見てきたわけですね。
松下:ユニクロを追いかけて海外に取材に行く度に、海外のマーケット情報もリサーチしていました。だからこそ、08年の「H&M」や09年の「フォーエバー21(FORWVER 21)」日本上陸の際にも、「ファストファッションといえば松下」というように評価してもらえて、記者としての強みが増えた気がしますね。ユニクロを取材する中で一つの視座ができて、他社と比較することができるようになった。「ユニクロについて本を書かないか」とお誘いを受けたのも、それがあったからだと思います。ただ、あの本は当初は3カ月くらいで書いてください、という依頼だったんですが、出版までに2年半くらいかかってしまった。書いているうちにユニクロがどんどん進化していくから、それとの追いかけっこをしていたような感じでした(笑)。
松下久美:ファッション週刊紙「WWDジャパン」のデスク、シニアエディター、「日本繊維新聞」の小売り・流通記者として、20年以上にわたり、ファッション企業の経営や戦略などを取材・執筆。著書に「ユニクロ進化論」(ビジネス社)