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伝説のクラブ「スタジオ54」の設立者が語る光と影 成功から投獄生活まで 前編

 米ニューヨークの「スタジオ54(STUDIO54)」は、多くの人がその名を耳にしたことのある伝説のナイトクラブだ。このクラブはブルックリン出身の若者2人、イアン・シュレーガー(Ian Schrager)とスティーブ・ルベル(Steve Rubell)が1977年に設立。2人はマンハッタン・ウエスト54丁目254番地のガロ・オペラハウスをナイトクラブに改装し、当時のクラブシーンに革新をもたらした。「スタジオ54」の外にはベルベット・ロープ(レッドカーペットやクラブの入口に置かれる区切りの綱)で「入場を拒否されないように」と願う何百人もが列をなした。「スタジオ54」の写真やファッション、小道具などを集めた展覧会「スタジオ54:ナイト・マジック」がニューヨークのブルックリン美術館で今年の3月13日に開幕した。7月5日まで開催予定だったが、新型コロナウイルスの流行で現在は休館している。ルベルは89年に死去したが、シュレーガーはブティックホテルのパイオニアとして知られ、マリオット・インターナショナル(MARIOTT INTERNATIONAL)との協業でホテル「エディション(EDITION)」を手掛け、自身の会社で「パブリック・ホテル(PUBLIC HOTEL)」を運営している。本国「WWD」のインタビューでシュレーガーは「スタジオ54」の成功と失敗、脱税の罪で投獄された経験などについて語った。

WWD:なぜいまだに「スタジオ54」はインパクトを持ち続けるのか?

イアン・シュレーガー(以下、シュレーガー):「スタジオ54」は、それ以前になかった3つのことを実現したまでだ。クラブに入ることができた人全てが完全な自由を謳歌できた。そんな場所はなかなかないものだ。「スタジオ54」では何でもあり、何をしでかしても大丈夫。誰もじろじろ見ないし、批評もしない。誰もが自分らしく楽しめる完全な自由があった。また、完全に守られた場所だったということだ。有名人であっても誰もサインをねだるようなやぼなことはしない。超有名人が隣に座ったとしても誰も気にしない、そんな場所だった。「スタジオ54」は誰にも邪魔されずにそれぞれが楽しい時間を過ごすことができる楽園だったんだ。一番重要なのは、それ以前にはあり得なかったような、ありとあらゆるタイプの人々が集まったこと。金持ちもいれば、そうでない人、老若男女、ゲイ、ストレート、黒人、白人もいた。あらゆるタイプの人が集まることが「スタジオ54」に熱気とエネルギーをもたらした。それは、金持ちの白人だけが集まる場所ではあり得ないことだ。自分とは背景が違う人たちと一緒にいられることが人々にとって興味深かったんだ。40年経った今でも人々は、まだ「スタジオ54」に興味深々だ。「ウッドストック(WOODSTOCK)」などの人生に影響を与えるようなイベントに何回か行ったが、「スタジオ54」ほどではなかったと思う。

WWD:以前になかったクラブに必要な要素をどうやって見つけたのか?

シュレーガー:新しいものや革新的なものをつくるときは、自分が好きだと思うことを実行するのみだ。地図があるわけじゃない。自発的にやりたいと思うことをやるだけ。ファッション・ピープルは、自分が着たいと思う服を着るだけ。それは、デザインがどうとか、金もうけをしたいとかということではない。自分の欲望の純粋な表現でしかない。私はストレートの人が集まる場所にいて快適に感じたことがない。なぜなら、気取っていて表面的だから。誰かに会って話したいと思って行ったのに、面白そうな人は誰もいない。だから、ダウンタウンのゲイクラブのようなエネルギーがある場所がパーティーにはもってこいだと考えたんだ。ゲイだけでなく、もっといろんな人々を集めて、誰もが夢見るような場所にすればいいと思った。

WWD:なぜファッションが重要な鍵になったのか?

シュレーガー:私は野球選手や陸上選手がスターだった時代に生きてきた。映画俳優が頂点だった時代からそれがロックスターに、そしてメディアを率いる人々に移った。私はそれら全てを見てきた。70年代のニューヨークでは、アメリカのファッションが確立し始めた頃でファッションデザイナーらが当時の映画スターのようなものだった。彼らが行く場所が超クールだと認められるようになり、文化の中心になったんだ。この現象は「WWD」や「W」を出版したジョン・フェアチャイルド(John Fairchild)氏による影響が大きい。

WWD:入場者の選定はどうやって行ったか?

シュレーガー:とても民主的だった。エリートだけが入れるようなクラブではなく、人種や信条、富に基づいた選定はしなかった。いろいろな人々が集まる場所にしたかっただけだ。女性に嫌な思いをさせないように徹底したケアを行っていたよ。自宅でプライベートパーティーをするときみたいに慎重だった。おしゃべりな人の隣にはおとなしい人を座らせたりね。ただ、公共の場なのでそれに対して文句を言う人もいた。「スタジオ54」では金持ちで権力がある人や有名人であることは何の意味も持たなかった。スティーブと私が「スタジオ54」でしたことは、法を破って、ある意味ばかげたことをしただけ。多くの人が「スタジオ54」の成功とそこで起こっていることに対して否定的だった。「スタジオ54」に入ることができず、それに対して怒る人が多かったからね。パーティーを盛り上げるために、ドアマンがさまざまなタイプのグループの人々を選んだ。まるで、サラダを作るようにね。スティーブはそれにものすごく長けていた。彼だけが、並んでいる人を怒らせずに入場を断ることができた。彼はとても感じよく、自然にそれができたんだ。クラブにふさわしい人を選んでいただけ。必ずしもすべてがそうだったとは限らないが、われわれの人選は成功だった。

WWD:だいたい何人くらいクラブに入場できたのか?

シュレーガー:データはない。金もうけのためじゃなかったから。外に人を並ばせることでクラブが混んでいると思わせていると受け取る人もたくさんいたよ。一度に数千人を入れることが可能だった。数千人がダンスフロアで一斉に、まるで大きな有機体のように動く様子は見もので、それを楽しむ人もいれば、そうでない人もいた。クラブに入るために大金をつぎ込む人もいたよ。セックスでも何でもあり。ドラッグはなかったと思うけど。妻が夫を差し置いてクラブに入り、その後別れたというカップルをいくつも見たよ。ありとあらゆる人たちがなんとしても入りたい、そんなクラブだったんだ。

WWD:前代未聞のクラブ作り上げたと気付いたのはいつか?

シュレーガー:この仕事を長くやっているからね。自然に成功したものもあれば、そうでないものもある。成功するには努力が必要。「スタジオ54」は自然な成功だった。われわれはオープン前からそれが特別なものになると分かっていたよ。オープン直前に、視覚的な刺激やスケールの大きさなど、全てにおいて最高レベルのセットをつくるという意気込みが、このスタジオを今まで誰も見たことがないものにしたんだ。オープン初日から毎日混雑していた。吹雪で50cmも雪が積もった日でもクラブの中は歩けないほど混雑していた。(後編はこちら

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