米ニューヨークの「スタジオ54(STUDIO54)」は、多くの人がその名を耳にしたことのある伝説のナイトクラブだ。このクラブはブルックリン出身の若者2人イアン・シュレーガー(Ian Schrager)とスティーブ・ルベル(Steve Rubell)が1977年に設立。セレブリティーやアーティスト、デザイナーなどさまざまな人々が集う社交場として一世を風靡した。ルベリは89年に死去したが、シュレーガーは80年代にモーガンズ・ホテルグループ(MORGANS HOTEL GROUP)を立ち上げ、ブティックホテルの先駆けである「モーガンズ ニューヨーク(MORGANS NEW YORK)」や「ロイヤルトン ホテル(ROYALTON HOTEL)」などをプロデュース。現在はマリオット・インターナショナル(MARIOTT INTERNATIONAL以下、マリオット)と協業でホテル「エディション(EDITION)」を手掛け、自身の会社で「パブリック・ホテル(PUBLIC HOTEL)」を運営している。米「WWD」とのインタビューでシュレーガーは「スタジオ54」の成功と失敗、脱税の罪で投獄された経験などについて語った。ここでは、前編に続き後編を紹介する。
WWD: 「スタジオ54」におけるお気に入りの思い出は?
イアン・シュレーガー(以下、シュレーガ-):「スタジオ54」がオープンしたとき、米「ニューヨーク・ポスト(New York Post)」紙の一面に掲載されたことだ。ナイトクラブがニューヨークの新聞に掲載されることなど前代未聞だった。オーバーオールと麦わら帽子をかぶったシェールの写真が掲載されたよ。スティーブが朝5時に電話してきて、「やったぜ。『ニューヨーク・ポスト』の1面だ」と言ったんだ。オープン後間もなく開かれたビアンカ・ジャガー(Bianca Jagger)の誕生パーティーもいい思い出だ。デザイナーのエルサ・ペレッティ(Elsa Perretti)やモデルのパット・クリーブランド(Pat Cleveland)、デザイナーのロイ・ホルストン・フロウィック(Roy Halston Flowick)や彼の同僚だったジョー・ユーラ(Joe Eula)らがビアンカの誕生パーティーを開きたいと電話してきた。パーティーには約100人のセレブリティーが来た。裸体にペイントを塗りたくった人もいたよ。長い金髪の女性が馬に乗ってビアンカのバースデーケーキを持ってきた。彼女が馬から下りると、赤いドレスを着たビアンカがその白馬に乗った。たぶん、そのドレスは「ホルストン(HALSTON)」だったはずだ。そして、ビアンカが白馬に乗った写真は世界中に広まったよ。ふつうはクラブに動物なんかいないけど、われわれはパンサーやヒョウをスタジオに入れたりして、クラブの概念そのものが変わったんだ。毎晩こんなショーを開いて楽しんでいただけさ。
WWD: スタジオが持っていた中毒性に関して責任を感じるか?ある人にとっては単なる社交場が、他の人にとっては命取りになったが……。
シュレーガー:麻薬中毒のこと?私はスタジオで起こったことに対しては全く責任を感じていない。もし、スタジオのことで問題を抱えていた人がいたとしたら残念だけど。スプーンを持った男と月の小道具があったが、多くの人はそれがコカインの使用を暗示ていると思っていた。それは、アングラなナイトクラブが破壊的であるという先入観の一つに過ぎない。その小道具はコカインの使用の暗示でも何でもなかった。われわれはスタジオ内の麻薬使用とは一切関係がなかった。他の場所の方がよっぽど麻薬が蔓延していたと思う。
WWD: 脱税の罪に関しては?
シュレーガー:罪を犯したことは認めるが、われわれは、いわば拳銃を使えないギャングのようなものだった。スタジオを開いてから金がどんどん入ってくるようになった。スティーブが「ニューヨークマガジン(New York Magazine)」のインタビューを受けて、「われわれはマフィアよりも稼いでいるが誰にも言うな」という彼の言葉が掲載された。ばかなことをしたものだ。われわれがスタジオを始めたのは金もうけのためではなく、成功したかっただけだ。地道だったし、特に散財もしなかった。ただ、方向を間違って愚かなことをしたせいで破滅寸前だったというのは確かだ。
WWD: ビジネスを統括していた人物はいたか?
シュレーガー:いたが、われわれも経営に関わっていたから関係ない。われわれ全員の落ち度だ。クラブの天井に現金が隠されていたというのは、全くの作り話だ。私は車のトランクに現金を隠していた。警察にしょっ引かれたかもしれないし、盗難にあったかもしれないのに……。それくらい愚かだったから、逮捕されて罰せられたのは当然のことだ。そして、ニューヨーク中がそれを知ることになった。
WWD:刑務所はどうだったか?どうやって刑期を乗り切ったのか?
シュレーガー:ひどかった。刑務所ではたくさん本を読んだよ。デヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam)の「最良の、最も聡明な人々(The Best and Brightest)」を読んだのを覚えている。そのとき、スティーブと私は刑務所内の大部屋にいて、ホテル事業を始めようと決めたんだ。
WWD: 13カ月間の刑務所生活で感じたことは?
シュレーガー:犯罪者らと一緒にいるわけだから、不安だったよ。スティーブと私は、ルフトハンザ(LUFTHANSA)強盗団の一人や、リドリー・スコット(Ridley Scott)監督の映画「アメリカン・ギャングスタ―(American Gangster)」に登場するフランク・ルーカス(Frank Lucas)と一緒だった。刑務所は本当にひどいところだ。人間性や個人としての裁量全てを奪われるから。普段当たり前の、自分でものごとを決断できるという自由はない。ずいぶんと苦しんだよ。刑務所の生活から得たものは何もない。人生が破滅する寸前の大失敗からは多くを学び、人間的に強くなった。その経験が倫理の基準やさまざまな考え方を変えた。でも刑務所に入らずにそれができたらよかったのにと思う。なぜなら、刑務所では全てを失うからだ。投獄された傷は今でも癒えないし、恥ずかしいと思っている。この後もずっとそうだろう。一番下の子どもにはまだ、(投獄されていたことを)話していないし、年上の子どもらにも長いこと話していなかったよ。
WWD:その経験がどのように今日の自分に影響しているか?
シュレーガー:法律やルールを守るのが当然のことだと思うようになった。素晴らしい人物はルールに沿ってものごとを行い、決して手抜きはしない。ビジネスを一緒にしているマリオットの職員をはじめ成功した人々はみんな正直で誠実だ。それは今の私の姿でもある。憂鬱なときは、投獄されていたときの自分を思い出すとすぐに気がまぎれるものさ。
WWD:今までやったことがないことでやってみたいことは?
シュレーガー:いまだに私はありとあらゆるものに関心があるんだ。ドキュメンタリーを撮影してからは映画作りには興味がなくなったけど。映画製作にはあまりにも多くの人が関わるからね。ブロードウエイの劇を手掛けてみたいと思っていたこともあったけど、今は全く状況が変わった。マリオットや自分のホテルを多く手掛けているからね。今でも20~30年前同様に、いそがしく働いているよ。自分の仕事を愛している。そうでなきゃ、成功できないからね。一生懸命やっているだけ。ファッション業界では、ノーマ・カマリ(Norma Kamali)がまさにそうだった。
WWD: 「スタジオ54」のような場所は現在も存在するか?
シュレーガー:もちろん、可能性はあるさ。ドイツの東ベルリン地区やスペインのイビサ島に似たようなクラブがある。スマートフォンで写真を撮れる時代だから70年代とは状況は違うが、時代が変わっても人間は変わらないよ。人間は常に楽しいと思う触媒を探している。ファッションは変化するが、車は車、飛行機は飛行機、冷蔵庫は冷蔵庫、機能性が進化しただけの話。人間は社交的な動物なんだ。「スタジオ54」を再現することは100%可能だと思うよ。
WWD:「スタジオ54」を再開する予定は?
シュレーガー:それは、過去に私が実現したこと。今は結婚し、5人の子どもがいて幸せな生活を送っているよ。