“プレ磨き”という言葉を聞いたことがあるだろうか――新品の革靴を購入後、履く前にオイルを入れて革のポテンシャルを最大限に引き出し、履き心地をよくするステップのことだ。靴磨き職人やその周辺ビジネスを多く取材しているため、個人的には“当たり前”のことだったのだが、あらためてシューズメーカーに聞いてみても案外知らない人が多いことに驚いた。前述のような効果があり、高級紳士靴を買った際にはなるべく実践しているし、人にも勧めている。
東京都で過去最多の新型コロナウイルス感染者が報告されたり、国と都の要請にかい離があったりして世の中の混乱は続いており、「WWDジャパン」を発行するINFASパブリケーションズもリモートワークを継続している。つまり、おニューの革靴を買ったとしても履いていく“場”がないのだ。とはいえ、僕をはじめとする革靴好きの衝動は抑えることはできず、また当社も8月の“通常運転”化に向けて週1~2日程度の出勤を実験的に再開するとあって、さらには10万円の特別定額給付金も入るとのことで、半ば強引に心のストッパーを外した。
購入したのは、1879年創業の英国ブランド「クロケットアンドジョーンズ(CROCKETT & JONES)」のセミブローグモデル“コベントリー(COVENTRY)”(7万9000円)だ。パーフォーレーション(穴飾り)が特徴でカジュアル(ある意味、華やか)な印象のブローグ靴にはこれまで不思議と縁がなく、入門編として装飾が控えめなセミブローグを選択した。「クロケットアンドジョーンズ」というと日本では、チャッカーブーツの“チャートシー(CHERTSEY)”やタッセルローファーの“キャベンディッシュ(CAVENDISH)”が有名だが、正規代理店を務めるグリフィンインターナショナルの香取宗一郎・営業担当に「ジャケットを主役にしたきれいめスタイルはもちろん、夏にはホワイトジーンズにもマッチしますよ」と背中を押されて決めた。
「クロケットアンドジョーンズ」は、靴の聖地である英国ノーザンプトンを代表するシューズメーカーで、僕も数年前にロンドンから約1時間電車に揺られて訪問したことがある。アポなしで訪れたら欧州はちょうどバケーションシーズンで、訪ねた工場には誰もおらず、結果としてほぼ何も取材できなかったというのは、今となっては笑い話だ(!?)。そんな中でも、「クロケットアンドジョーンズ」ではたまたま居合わせたスタッフが工場内を簡単に案内してくれて、本場の靴作りの端っこに触れることができた。数年の時を経て、あの工場で作られた靴が僕の足元にあるというのは、やはり感慨深い。
さて、プレ磨きの話に戻ろう。ここまでくると、なかなかに変態的であることは自覚しつつ告白するのだが、“誰に磨いてもらうか?”も重要だ。さまざまな候補が浮かんだ中で、今回依頼したのは靴磨き職人の寺島直希さん(26)。三越銀座店が2019年に行った「靴磨き選手権大会」でチャンピオンに輝き、東京・渋谷の靴磨き店「ザ ウェイ シングス ゴー(THE WAY THINGS GO)×ユニオンワークス(UNION WORKS)」でストアマネジャーを務めたのちに独立し、地元京都でこの春の起業を目指していた。しかし、ここにも新型コロナの影が差し、開店は保留状態。そんな寺島さんが郵送による靴磨きサービスをスタートさせたと聞いて、応援の意味も込めてお願いした。
靴磨きは全体を控えめ(上品)に光らせるやり方が主流となりつつあるが、白黒はっきりさせたい僕は「目いっぱいメリハリをつけて」と依頼した。果たして、完成したのがこちらだ。
寺島さんは次のように説明する。「新品の革靴も出荷時に磨かれてはいるんです。ただ時間が経過しており、そもそも出荷時の磨きは栄養を与えるというより、美しい見た目を重視したものであることが多い。今回お預かりした“コベントリー”も、光沢はあるものの乾燥していました。そこでまずは“スッピン”にしてから、柔らかさを出して足なじみをよくするためのアプローチを行いました。具体的にはアッパーに表と裏からオイルを入れています。これはプレ磨きならではのステップと言えます」。寺島さんらがSNSで発信していることもあって、プレ磨きの認知は徐々に上がってきている。しかし、それでも革靴購入者のわずか数パーセントが行うのみだ。「今のような梅雨の時季には、なおさら事前の対策をしてほしいです」と言い、「ソールを何度も替えて、自分の足形に“育てる”グッドイヤーウェルト製法の靴の場合、出荷時の完成度は90%程度。それを100%に近づけるアシストをするのがプレ磨きであり、われわれ靴磨き職人なんです」と続けた。
寺島さんの“リモート磨き”の料金は3000円~。SNSのDMで個別に交渉してから、元払いで靴を発送。寺島さんが診断の上、あらためてDMでプランを決定する。復路の送料を含めた料金を振り込み、もしくはクレジット払いすれば発注完了となる。納期は1週間ほど。現在は週に10足ほどを受け付けており、「予想以上の反響」だという。専門の職人と連携してリペアや、靴以外にバッグや財布など革製品のメンテナンスも行っている。京都市内の客には集配もする。肝心の靴磨き店のオープンは「年内を目指す」という。
こうした状況下で京都に顔を見せに行くことはできないが、「かわいい子には旅をさせよ」よろしく、せめて愛靴にだけ古都の空気を吸わせた格好だ。「よい靴はよい場所へ連れていってくれる」とは欧州のことわざだが、ひと皮むけた“コベントリー”がアフターコロナで僕を素敵な場所に連れて行ってくれることを期待する。ちなみに特別定額給付金は1円も僕の財布には入らず娘の学業に使われると、本稿執筆中に妻から通告があった……。