ファッション

変化を進化へ デジタル化する香港のミュージアム【高橋瑞木の香港アート&テキスタイル 連載vol.5】

 国家安全維持法の成立で揺れる香港だが、新型コロナの感染拡大は落ち着きを見せる中、テキスタイルとアートの分野ではイタリアやオランダと連携した新たな試みがスタートしている。水戸芸術館現代美術センターのキュレーターを経て、香港CHAT (Centre for Heritage, Arts and Textile) のエグゼクティブ・ディレクターを務める高橋瑞木氏による連載5回目をお送りする。連載は今回で最後になる。

 日本でも大きく報道されているだろうが、香港国家安全維持法が成立した。香港政府の逃亡犯条例改正案に反対する市民の抗議活動が激化し始めたのが、ちょうど去年の今ごろだった。抗議活動は皆の想像以上に長引き、CHATで企画された「須藤玲子:NUNOのテキスタイルができるまで」展は、抗議活動の様子を見ながら設営を行った。日本から本展を目当てに香港に来ようとしていたゲストの多くも、残念ながら混乱する香港への渡航を見合わせることになった。ただでさえ観光客が激減した香港に、新型コロナウイルスの感染拡大はさらにダメージを与えた。2003年に流行した感染症、SARSの記憶も新しい香港のリアクションはかなり迅速だったと思う。2月初旬の旧正月明けには多くの企業が自宅勤務態勢に突入し、3月からは多くのレストランが客の入店時に検温を始め、同月下旬からは客席を間引きながらの営業を開始した。CHATはNUNO展の会期を当初の予定よりも3週間延長し、その間多くの香港人が来場し、展示を楽しんだ。実はこのNUNO展は、海外巡回の話が水面下で進んでいる。詳細はまだ発表できないが、海を超えて日本のものづくりを支える職人の仕事やNUNOの作品を伝えることができることに、あらためて興奮している。

 香港がヨーロッパやアメリカに先駆けてコロナ対策をうっている間に感染は拡大し、今でも開館を見合わせている美術館は多い。しかしその間に美術館は自館の展覧会やコレクションをロックダウンで自宅にこもっている人々に届けようと、デジタルコンテンツの発信へと舵をきった。CHATも例外ではなく、4月以降20以上のコンテンツをローンチしているが、その目玉のひとつが「須藤玲子:NUNOのテキスタイルができるまで」展のデジタルカタログだった(図1)。

 実は展覧会のカタログの販売は、近年多くの美術館にとって悩みの種になっている。キュレーターのリサーチや研究に基づくエッセーや、美しい画像が掲載されている展覧会カタログは、今やネット上で無料で見ることができる画像や情報に押され、販売が伸び悩んでいる。スマートフォンで気軽に美しい画像を見れたりする習慣に慣れてしまうと、重い展覧会カタログを持ち帰るのもおっくうと感じるようだ。展覧会のカタログは、会期が終われば消えてしまう展覧会の記憶を喚起するもうひとつの展覧会のようなもので、デザインもコンセプチュアルだったり、凝ったものが多い。しかしながら、紙の節約、流通の簡易さ、そしてなによりも展覧会会場の音や動きを伝えることができるという点で、CHATはNUNO展のカタログを印刷ではなく、デジタルにすることに踏み切った。CHATのウェブサイトから、無料公開のPDFカタログに飛ぶと、キュレーターのテキストや、展示風景のスチールフォトはもちろん、17分弱の展覧会のドキュメンタリービデオを誰でも無料で見ることができる。アートセンターとして優先すべきことは、須藤玲子やNUNOの仕事について幅広い層に知ってもらうという結論が、最終的にカタログのデジタル化を後押しした。キュレーターにとっては展覧会の内容に合わせてカタログの仕様を考えたり、本の紙を選んだりするのは最も楽しい仕事の一つなので、デジタル化は悩ましい決断だった。しかし、ネット検索からのアクセスのしやすさや、国境を超えてより多くの人々が見ることができ、かつ資源の節約になるというメリットにはあがらい難かった。

 デジタルカタログ以外にも、CHATは4月からオンライン上で「Museum from Home」のキャンペーンを開催し、常設展示のバーチャルツアー(手話付き)や、アーティストへのインタビューといったコンテンツを続々とアップロードしている。(図2、3)テキスタイルはマテリアルに実際に触れて楽しんでもらうことも大事なので、CHATではワークショップも頻繁に開催していたが、これもZoomによるリモートワークショップに切り替えた。刺繍の枠と糸、布をパッケージにしたキットを参加者に郵送して、Zoomで刺繍を教えるオンライン通信教育的なワークショップは、参加者が自分の家から参加できる気軽さも手伝って、毎回大盛況だ。

 また、CHATはオランダのティルブルグにあるテキスタイル美術館(Textile Museum, Tilburg)、ポーランドのウッチにあるテキスタイル産業博物館(Central Museum of the Textile Industry)、そしてイタリアのプラートにできたテキスタイルに特化したクンストハレ(*編集部注:企画展専門の美術館のこと)のロットゼロ(LOTTOZERO)に声をかけ、オンラインでの共同企画のプラットフォームのイニシアティブをとっている。隔週で各国のキュレーターや広報の担当者が集まり、オンラインプログラムの計画を練っている。このヨーロッパの3つの美術館は、従来の伝統的なテキスタイル美術館のイメージを刷新しようと、アーティストやデザイナーの新しいクリエイションをサポートするラボを備えていたり、現代アーティストと積極的にコラボレーションを行ったりしている。私たちはこのネットワークを通して、新しいテキスタイルアートやデザイン、美術館や展覧会の潮流を伝えていこうとしている。今年の秋に最初のプログラムを発表する見通しだ。

 香港はソフトロックダウンで感染者拡大を抑えることができたため、今はほとんどの美術館が通常営業に戻りつつある。CHATは5月8日から「Unconstrained Textiles: Stitching Methods, Crossing Ideas(自由なテキスタイル:縫い合わす方法、交差する思考)」展を再オープンしたが、入場者制限をしているにもかかわらず、連日多くの家族連れや若者が訪れている。オンラインで展覧会やトークイベントなどのコンテンツをオーディエンスに届けることはできるが、やはり本物のアート作品を肉眼で見る経験は何にも勝るようだ。

 今や伝説にもなっている1969年にカリスマキュレーター、ハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann)が1969年に企画し、今や伝説にもなっている現代アートのグループ展、「態度が形になるとき(Live in Your Head: When Attitudes Become Form)」にアジア圏出身で唯一招待されたフィリピン人アーティストのデヴィッド・メダラ(David Medalla)が、1968年から断続的に世界各地で制作している参加型作品「スティッチ・イン・タイム」が、本展でも展示されている。この作品は来場者が7色の糸を使って巨大な白いキャンバスに自分の所持品を縫い付けたり、刺繍できる作品だ。会期の最後には、このキャンバスが展示されていた特定の時間と場所の記録が縫い取られているアーカイブとなる。この作品は再オープン後、予想以上の数の来館者が参加している。香港の観客は思いもよらないクリエイティビティを発揮し、この白いキャンバスに刺繍をほどこしている(図4・5)。

 本来なら来館者が作品に直にステッチをするこの作品だが、新型コロナウイルス感染防止のための閉館期間中、メールやインスタグラムでこの作品にステッチしたい画像を送ってくれるように私たちは呼びかけた。新型コロナウイルスの画像や、ソフトロックダウン中に活けられた花束の写真や、中には若い頃のデヴィッドとのツーショット写真などが思いがけない場所から送られてきた。届いた画像はCHATのスタッフがキャンバスに縫い付けた。図らずも新型コロナウィルスのパンデミック、そして香港国家安全維持法の施行という歴史的なモーメントを体験しているこの作品には、会期の最後にはどのような記録が残されているだろうか。

 昨年の11月から始まったこの連載も、抗議活動に続くコロナ禍という予想もしなかった事態に翻弄され、不定期になってしまった。およそ半年の連載期間のうちに世界がこうも変化してしまったことに、今さらながら驚愕する。そんな変化の激しい日常で、淡々と制作活動を続けるアーティストの姿に元気をもらうことがある。CHATの開館展にも参加してもらったアーティスト青山悟は、ロックダウン中に「Everyday Art Market」というウェブサイトを立ち上げ、ロックダウン中の日常の中で即興的に制作した刺繍作品を発表している。(図6)また筆者の古巣、水戸芸術館現代美術センターのギャラリーの監視員と話し合いながらマスクに刺繍を施したり、ソーシャルディスタンスを測るためのメジャーなどを制作するというユニークなプロジェクトにも参画している(図7)。

 今回で連載は最終回となる。予想が立たない世界でどうやってアートセンターのプログラムを企画していくか悩みはつきないが、日々制作に向き合っているアーティストやデザイナーたち、そしてCHATのスタッフとともに、香港でクリエイティブの芽をどのように育んでいくか、挑戦はまだ始まったばかりだ。

高橋瑞木(たかはし・みずき)/CHAT(Centre for Heritage, Arts and Textile)エグゼクティブ・ディレクター:ロンドン大学東洋アフリカ学学院MAを修了後、森美術館開設準備室、水戸芸術館現代美術センターで学芸員を務め、2016年4月CHAT開設のため香港に移住。17年3月末に共同ディレクターに就任、20年3月から現職。主な国内外の企画として「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」(2009)「新次元:マンガ表現の現在」(2010)「クワイエット・アテンションズ 彼女からの出発」(2011)「高嶺格のクールジャパン」(2012)、「拡張するファッション」(2013、以上は水戸芸術館)「Ariadne`s Thread」(2016)「(In)tangible Reminiscence」(2017、以上はCHAT)など

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