世界的に知られたデザイナーであり、小売りやレストランまで手掛けたライフスタイルの先駆者であるテレンス・コンラン(Terence Conran)卿が9月12日、イギリス・ロンドンの自宅で死去した。88歳だった。コンラン卿は4人目の妻であるヴィッキー(Vicki)とファッションデザイナーのジャスパー・コンラン(Jasper Conran)をはじめとする5人の子どもに看取られた。ジャスパーは自身のインスタグラムで「まるで眠るかのように亡くなった。多くの人々からのメッセージに感謝している」とコメントしている。コンラン一族は、「先見の明があり、イギリスのライフスタイルに革命をもたらし、優れたイギリスのデザインや文化、芸術を世界中に広めた。全ては、良いデザインは人々の生活の質を向上させるというシンプルな信念に基づいたものだった」と述べ、「クリエイティブ業界における若者への教育の重要性を絶え間なく支え続けたと同時に、父親、夫、友人として愛されていた」と続けた。
コンラン卿は1931年10月4日生まれで、ロンドンのセントマーチン美術大学(Central Saint Martins)でテキスタイルデザインを学んだ後、48年に教師でプリント技師であったエドアルド・パオロッチ(Eduardo Palozzi)とワークショップを始め、家具や陶器、テキスタイルに関するデザイン技術を磨く。
64年に設立したインテリア企業ハビタ(HABITAT)は世界的なチェーン店に発展した。モダンなインテリアやライフスタイルのお手本的な「ハビタ」の店舗は、スウェーデン発「イケア(IKEA)」、米「クレート&バレル(CRATE AND BARREL)」、米「ポタリー・バーン(POTTERY BARN)」といった多くのインテリアブランドにインスピレーションを与えた。72年には家具やデザインアイテムを販売するザ・コンランショップ(THE CONRAN SHOP以下、コンランショップ)の初店舗をロンドンに出店。コンラン卿のスタイルは、シンプルかつミニマルで、モダンで機能的なものだった。コンラン卿はハビタの成功により、家具や洋服など複数の企業から構成されるストアハウス・グループ(STORE HOUSE GROUP)を設立してビジネス拡大を図ったが、デザイン事業に専念するため、90年代に手放している。
コンランショップは現在、ロンドンに3店舗、パリに2店舗、ソウルに1店舗、東京に2店舗、名古屋に1店舗、福岡に1店舗の計10店舗。今年初めにコンラン卿はコンランショップをイギリス人ビジネスマンのジャバド・マランディ(Javad Marandi)に売却した。マランディは、「彼はサステナブルで長く続くビジネスを求めており、私はそれを彼に約束した。最後まで事業に関わってくれたことに感謝している。彼の偉業と原理が何世代にもわたり引き継がれることに全力を注ぐ」と述べている。
コンラン卿の関心はインテリアだけではなかった。53年に初のレストラン、「ザ・スープ・キッチン(THE SOUP KITCHEN)」をスタート。その後、ロンドン・サウスケンジントンの「バベンダム(BIBENDUM)」やチェルシーの「ブルーバード(BLUEBIRD))、ロンドン橋たもとの「ル・ポン・ド・ラ・トゥール(LE PONT DE LA TOUR)」などを開業し、パリ、ニューヨーク、コペンハーゲン、東京などの都市にもレストランを出店してきた。昨年には52軒目のレストランをロンドンの「バウンダリー・ホテル(BOUNDARY HOTEL)」内にオープンしたばかりだ。
コンラン卿はホテルやレストランのインテリア、グラフィック、製品などを手掛けるザ・コンラン・デザイン・グループ(THE CONRAN DESIGN GROUP)を設立。また、建築家のフレッド・ロイド・ロシェ(Fred Lloyd Roche)と組んで建築や内装を手掛けるコンラン・アンド・パートナーズ(CONRAN AND PARTNERS)も立ち上げた。
ビジネス以外の文化的な功績も大きい。89年には、ロンドン南西部のシャッド・テムズにデザイン・ミュージアム(Design Museum)を設立。2016年にデザイン・ミュージアムはケンジントンに移転し以前より3倍の広さになった。デヤン・スジック(Deyan Sudjic)= デザイン・ミュージアム名誉ディレクターは、「コンラン卿以上に、イギリスの現代化に寄与した人物はいない。彼は生涯をかけて、全ての人々の生活を豊かにする方法を探した」と述べている。コンラン卿は12年に芸術慈善活動(Arts Philanthorophy)のメダルを、17年には芸術への貢献を称えるコンパニオンズ・オブ・オーナー(Order of the Companions of Honour)勲章を授与された。
コンラン卿はいつも、まるで秘密の話をするかのように目を輝かせ、はにかんだようなほほ笑みを浮かべていた。時には怒りっぽく厳しい面もあったが、彼は生まれつきの美食家で、彼のレストランではランチやディナーの後に、ワインで赤くなった顔で葉巻をくゆらす姿がよく見られた。彼は妥協を許さず、建築物から家具、ファッション、食べ物までありとあらゆるものにおいてデザインがよくないと痛烈に批判した。
07年のインタビューで「今まで挑戦したことのないことは」と聞くと、不愛想に「死ぬことがどういうことか、知りたい。来週76歳になる。私のように腰が悪いと『もう先が長くないかもしれない』と思う。死ぬまでにできるだけのことを精一杯やりたい。友達に最後のさよならを言うときにとても面白い方法を考えたんだ。テムズ川沿いの私のレストラン全部で盛大なパーティーを開くのさ。すばらしい花火大会を開き、私の遺灰は最も大きくうるさい花火と共に打ち上げられるというわけさ」と語った。