“トキシック・ポジティビティ(Toxic Positivity)”という言葉を知っているだろうか。コロナ禍で先が見えない状況を反映して6月ごろから英語メディアを中心に見かけることが多くなった。日本語にすれば“有害なポジティブさ”で、米フロリダ州フォート・ローダーデール拠点のセラピストグループ、ザ・サイコロジー・グループ(THE PSYCHOLOGY GROUP)は「どんな状況下においても幸せで楽観的な状態でいることを過度かつ無益に一般化しすぎること。その結果純粋な感情を否定、矮小化、無効化すること」と定義している。
同グループは同時に、怒りや悲しみなどネガティブな感情を抑圧し、言葉にしたり表情に出さないことで後に不安やうつ、身体的不調につながる可能性があることを警告している。例えば、落ち込んでいる時に無理やりポジティブに振る舞ったり、元気でないことに罪悪感を覚えてまた落ち込んだりと、元気な状態がデフォルトでなければならないと過度に断定してしまうと逆効果を生むというのである。
また落ち込んでいる人に対して「元気出して!なんとかなるよ」「そのくらいで済んでよかった」「良いこともあるよ」などと励ますことも純粋な感情から目を逸らせるもので“トキシック・ポジティビティ”になり得るという。ザ・サイコロジー・グループはそのような言葉ではなく落ち込んでいる人を受け入れ、共感し、話を聞くことが大切だと説く。
なぜ突然この言葉を紹介したかといえば、まず今年は常に元気でいること、そして常に大丈夫な状態であることがいかに難しいかを各々味わった年であるからだ。ファッション業界でいえば、国内の大手アパレル5社だけで3100店舗以上を閉店する見込みだ。そして閉店には人員解雇が伴う。そのような状況で、常に前向きで元気でいることははっきり言って無理だ。
しかしながら、現実世界では“前向きであること・元気であること”が当然で推奨されるべきこととして扱われる。「頑張って」は元気がない人にとりあえずかける常套句であるし、自粛期間中には外に出られない分、新たなスキルを身につけたり、苦しい状況でも笑顔をたやさず頑張ることがもてはやされた。もちろんポジティブでいられるときにポジティブでいることは悪いことではない。ただ、ポジティブでいられないときの感情も認め、一般化する必要がある。ネガティブな日があるのは当然なこと。自分自身、また他の人に対しても無益にプレッシャーを与えていないか今一度確かめるべきだ。
ファッションができるアプローチとは
ファッションといえば、人に元気を与えるものと認識されてきた。実際に新しい服やメイクに身を包むことで得られる高揚感は多くの人が経験したことがあるだろう。ただ、元気を与えるアプローチは独りよがりな“元気の押し売り”ではなく人の感情に寄り添い、安らぎや癒しをを与えるアプローチのほうが今は適切かもしれない。コロナ禍により予定より数カ月遅れてオープンしたミヤシタパーク近くのビルボード広告にソフ(SOPH.)が掲げた「まいったな2020」のコピーは多くの反響を呼んだが、これも共感を得たからだろう。
「ファッションは時代を反映する」とはよく言われたものだが21年春夏シーズンは、華やかさや派手さで元気を与えるというものよりも、圧倒的に安らぎムードが席巻していた。ベージュや白など優しい色使い、ゆったりとしたシルエットや着心地の良い素材が多く登場し、「WWDジャパン」の21年春夏のトレンドブックの副題も“家でも外でも心地よさをまとう”になっている。時代の空気に敏感なデザイナーたちが提案したのは、ネガティブな日も人を優しく包み、無理なく寄り添うファッションだ。
社会の規範に則れば人々にポジティブでいることを呼びかけるのは企業として当然のようなことのように思われる。もちろんブランドや企業によってはそうしたアプローチを求める顧客もいるかもしれない。しかし今は、いやこれからも、自分たちの顧客は何を求めているのか常に追求し、それに寄り添うアプローチをすべきだ。またファッション業界がもし自らに「常にポジティブなメッセージを発信しなければいけない、そのためには自らも常にポジティブでなければならない」という考えを課しているなら、その考えから自らを解放する必要がある。