「フレデリック マル(FREDERIC MALLE)」はこのほど、ブランド誕生20周年を記念してパフュームサミットを開催した。創業者のフレデリック ・マル(Frederic Malle)が、これまでブランドの香りを手掛けてきた世界最高峰の調香師と共に香りやブランドなどについて語った。
そもそもマルは、1962年にアーティストや調香師、実業家が名を連ねる家系に生まれた。「私は幼いときから、(家族などの)周りが常に香水について語っていたし、香りに関する会話をよく耳にしていた。5歳のときには香水の絵を描き、常に香りをまとっていた。子どものときは香水をそこまで理解できていなかったが、女の子が気になりはじめた年頃から、香りが人に与える影響を感じるようになった。人を引きつけるその魅力に気付いてから、香りの世界に進もうと思った」とマル。
そこで数多くのプレステージフレグランスを作るルール・ベルトラン・デュポン(ROURE BERTRAND DUPONT)に就職し、世界最高峰の調香師たちと出会う。25年以上をかけて彼らと親交を深めていくうちに、自身のブランドを立ち上げることを決意。多くの化粧品ブランドがイメージやマーケティングを訴求する中でマルは本来香水の本質である“香り”にフォーカスし、芸術的な香りを作るミッションに出た。そこで誕生した「フレデリック マル」は“エディション ドゥ パルファム(香りの出版社)”というコンセプトを掲げ、真のラグジュアリー パルファムの制作にこだわった。マーケティング戦略や時間、原料、コストなどにとらわれず、調香師にクリエイティビティーの自由を与えたのだ。マルはまさに“編集者”として、世界中の調香師の手掛ける作品を集積したメゾンを立ち上げることにしたのだ。
“香りの編集者”として真に作りたい香りを
「“香りの編集者”というポジションは私が作った概念。当時は香水の“マスマーケット化”が進み、調香師と消費者との距離がどんどん離れていった。調香師からも不満の声を多く聞くようになった。ユニークで面白い香水が消え、いつしか、つまらない香りばかりが市場に出るようになったし、友人も香水を付けなくなっていった。それでも私は香水が好きでたまらなかったし、どうにかこの状況を変えたかった」。
そんなある日、マルは日々を共にしていた調香師との関係が、編集者と作家との関係に近いことに気づいたという。「メーカーで働いていた私は、ときには調香師が作る香りにアドバイスをしたり、要望を出したり、彼らの香りを“編集”していたんだ。そこで自分が調香師の“編集者”として彼らが本当に作りたい香水をかなえられたら、真に美しくユニークな香りの世界が蘇るのでは、と思った」。
香水業界の既成概念を打破しようとしていたマル。彼はその後、世界中の最高峰調香師とタッグを組み、“マニアック”な香りを次々と生み出した。マルと協業した理由を聞かれた調香師のジャン・クロード・エレナ(Jean-Claude Ellena。“ローズ&キュイール”や“ロー ディベール”などを手掛ける)は「当時は私もまだ若く、次世代を担うパフューマーだったんだ。古いジェネレーションの調香師ともよくぶつかったし、ちょうど香水業界が変わりつつある時代にキャリアをスタートした。私は先輩たちとは違うことをしたかったし、業界を変えたかった。特に香水業界は(一般の人からして)謎に包まれ、閉ざされていた。そんな業界を解放し、調香師として、またアーティストとして自分の声を消費者に届けたかった。そこで少しずつニッチなメゾンフレグランスが台頭してきた時に、フレデリックのブランドを知り、彼はこう言ったんだ。『香水のボトルに、調香師の名前を入れたい』と。本当に驚いたよ。調香師が前に出ることは今までなかったからね。自分の名がボトルに載ることは、それだけの責任も持つ必要がある。でも、やっと“自分が作った香り”として認められることにもなる。ブランドの香りではなく、私の香り。それが面白くて、即座に協業を決めたよ。フレデリックには、私たち調香師にスポットライトを当ててくれて、感謝しかない」。
調香師のピエール・ブルドン(Pierre Bourdon)は、マルと共に作った“フレンチラバー”という香りについて語った。「私もフレデリックも、母親が“ミス ディオール”をよく付けていたんだ。だから僕らにとって、幼少期を思い出す香りでもあって。共に作った“フレンチラバー”には、“ミス ディオール”に近いノートも感じられるんだ」。実際、パルファン・クリスチャン・ディオール (PARFUMS CHRISTIAN DIOR)の創設者だったマルの祖父はブルドンの父親をアシスタントとして迎え、その後マルの母親が彼の弟子になっている。「本当にファミリーストーリーがある香りなんだ」。
“ダン テ ブラ”と“ムスク ラバジュール”を手掛けた調香師のモーリス・ルーセル(Maurice Roucel)は同製品が最も誇りに思う香りだと明かした。「当時、カシメラン(Cashmeran)という原料を使いたかったんだ。扱いが非常に難しい原料なだけに、調香師の間ではこれを用いた香水を作ることはステータスでもあった。多くが挑戦したが、いい香りを作ることに成功する人は少なかった。だからこそ、キャリアの中でも最も誇りに思う作品だ」。
“万人受けする”香りを求めるようになった大手
香水業界の変遷について聞かれるとブルドンは「香水業界は70年代に大きく変わったと思う。大手企業がより“売れる”香りを作るようになったんだ。“ミス ディオール”を父が作っていた時代は、アルコールを500リットル調達していた。今は世界中に展開され、もっと大きなスケールで生産している。名作が次々と大量生産されていく中で、“万人受け”する香りが増えていった。昔はリスクを負ってでも個性的な香りを作ることが醍醐味だったのに」。アン・フリッポ(Anne Flipo)も賛同した。「一時期は、市場に出回る香水が全部似たような香りだったと思う。やっと今、ニッチな香水メゾンの活躍で個性的な香りが再び受け入れられるようになった」。
ルーセルは「そして今の消費者はセフォラに行けば、何十種類もの香水をその場ですぐに試せる。だから嗅いですぐ彼らの印象に残らないと、選ばれない。トップノートに重きを置いた香りが増えているのではないか」と分析。「でも香水は本来、トップとミドル、ベースが重なりハーモニーを奏でるもの。そして時間をかけてゆっくり表情を変えるもの。だからトップノートだけでなく、全てを鑑みたブレンドを考えるべき」。
コロナで変わる人々の香りの趣向
新型コロナウイルスの与えた影響についてマルは「ナイトクラブが閉まる中で華やかなドレスをまとって香水をつけることはないだろう。もちろん香水には相手を引きつけたり、印象付ける役割があった。同時に、香水は“自分のために楽しむ”ものでもあると思う。つけると良い気分になり、なんだか安心感や高揚感を与える。例えばジャン・クロードが作った“ロー ディベール”はとても心地の良い香りで、その“心地よさ”は現代人が求めているものでもある」と語った。
ルーセルは「何でも香りの着想源となるのだ。今はみんな家でパンやケーキを作ったりしているけれど、それも香水の着想源になりうる。と話し、ブルドンも「都会に住んでいた人も、みんな今は実家に帰ったり田舎でロックダウンしていたりする。だから自然や田舎をほうふつとさせる香りを求めるようになるかもしれないし、香りの趣向も変わるかもしれない」とコメント。ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion。“ポートレイト オブ ア レディ”や“カーナル フラワー”などを手掛ける)は「(調香師として)われわれの仕事は変わることはない。常に、ユニークで新しいことを生み出すこと。もちろん、伝統的な価値や過去のクリエーションを大切にしながらね。だから香水業界の未来には全く不安を抱えていない。困難な状況であっても、それがイノベーションやクリエーションのきっかけになるだろうし、どんな状況であれ、新しいものを生み出せるから」。
最後にマルは「私は自分だけのやり方で香水を作りたい。私の香水のボトルがシンプルなのも、見た目や広告にお金をかけるのではなく、中身にこだわりたいから。今はニッチなメゾンが輝きはじめ、個性的な香りが再び活躍できるようになっている。『フレデリック マル』はいつの時代もチャレンジとイノベーションを続け、真にアーティスティックな香りを作り続けたい」と語った。