昨年末、とあるビューティ企業のトップから、こんな後悔の念を聞いた。ファッション企業のトップに何気なく「『ファッションは、文化にならなかったね』とつぶやいてしまった」という後悔だ。ファッションに携わる身として悲しくなったし、「じゃあビューティはどうなのか?」や「そもそも『文化』って何なのか?」など、思うところはある。だが同時に「そうかもしれない」とも思ったから、何も言い返さず、いや言い返せなかった。(この記事はWWDジャパン2021年2月15日号からの抜粋です)
「ファッションは、文化になれなかったのか?」「そもそも、文化になるべきなのか?」には、いろんな考えがあるだろう。ただ「もう少し文化的価値を帯びてもいいのに」と考える人は、少なくないに違いない。文化的価値が上がれば、例えば古い洋服の価値も高まるかもしれないし、自己表現の手段としての存在価値もアップして多様性さえ促されるだろう。それはファッションよりも文化的側面が強そうな世界、例えば映画の世界でルキノ・ヴィスコンティやジャン・リュック・ゴダール、小津安二郎が今なお賞賛され続け、音楽の世界では作り手と受け手の双方が「好き」を追求した結果ポップスやロック、ヒップホップなどファッション以上のジャンルが生まれたことを考えれば、ある程度は納得だろう。サステナブルやダイバーシティーなどの社会的価値を備えようとする努力は、ファッションやビューティがさらに一歩、文化に近づく一助になるかもしれない。
「文化」は、日本においては「道」と称される。「茶道」や「華道」、そして「香道」。お茶やお花、香りは「文化だ」という主張は、かなり頷ける。では「道」と称されるには、一体何が必要なのか?「人がよりよく生きる」というウェルビーイング、つまり「人が文化的に生きる」ことを探求する石川善樹・医学博士に話を聞くと、「『道』には概念と道具、作法が三位一体で存在する」という。そして彼は、そもそも大前提として「人は概念の世界で生きている。石の上の苔を見て『ほぅ』と思うのは、概念があるから」と続ける。体験し、言語化して、概念になるから、人はその概念を求め、同様の行為を探求する。文化は、こうして文化になるというのだ。ふざけているように聞こえるかもしれないが、最近「道」になった「サ道」で考えるとわかりやすい。サウナ→水風呂→外気浴を繰り返した結果の快感という体験が「ととのう」と言語化され、たどり着きたい一つの境地として概念化することで、サウナは新たな文化となって「サ道」と呼ばれるに至った。そしてサウナにはタオルという道具があり、上述のサウナ・水風呂・外気浴の繰り返しや体を清める(洗う)などの作法がある。サウナだけが「サ活」ではなく「サ動」として定着したのは、「概念と道具、作法が三位一体で存在する」からかもしれない。
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