17歳でアメリカ・ウィスコンシン州での留学から帰国。卒業後の進路を悩んでいたとき、「本腰を入れて芸能界でチャレンジをしてみないか?」と、現在の事務所に声をかけてもらい、5年間の契約を結んだ。ニューヨークのパーソンズ美術大学への進学と悩んだが、「うまくいってもいかなくても、5年後はまだ23歳。それからでも遅くない。今しかできないことに集中しよう」と決心した。
芸能界で過ごした5年で、さまざまな経験をした。活動を始めてすぐに憧れだったファッション誌「ヴィヴィ(ViVi)」の専属モデルになり、TV番組「笑っていいとも!」のレギュラーになった。ほかにもウエディングドレスやアクセサリーのプロデュース、時計やバッグ、海外アーティストの衣装ディレクション、ブランド立ち上げのプロデュースなど、さまざまなブランドともコラボレーションして、商品は飛ぶように売れた。当時は、多くのタレントやモデルがこんな風にブランドビジネスに参入し始めた時期だった。
モノづくりは、どれも心躍る楽しいものだった。関わった商品が店頭に並び、長蛇の列ができ、完売する瞬間を目の当たりにしたり、アイテムを身につけている子を見かけたりすることはうれしかったが、次第に疑問を抱き始めていった。
例えば、「チェック柄のシャツが欲しい」という要望をコラボ企業に伝えると、チェック柄の生地見本が3種類ほど用意され、私はその中からしか選べない。それが、“〇〇さんデザイン”として世間に発表されるのだ。「世界中には無数のチェック柄があるはずなのに、どうしてこの3つからしか選べないの?」「私がデザインしたと信じて購入してくれるみんなにどんな顔をすればいいの?」と、本気で悩んだ。私はそのやり方に限界を感じ、持続可能な消費者との関係性ではないと考えた。売り上げだけを狙ったビジネスは私には向かないのではと疑問が生じ、ファンとの関係性を考えると心苦しくなった。
その時、「ファッションをもっと勉強したい」という思いが心に強く芽生えた。「勉強して、可能な限りの知識を学び、自分が思う・表現できるベストをファンに届けたい。そうすれば『買ってくれてありがとう』と、気持ちよく伝えられる」。
そして23歳の時、パーソンズに留学した。
私の決断に多くの人が反対した。「どうしてその歳で大学に行くの?」「遅すぎない?」「ファッションブランドをやりたいなら、これまでのようにどこかの企業と組めばすぐできるじゃない?」。それでも自分の本能に従い、ゼロからファッションを学ぼうと決めた。
つづく……