「日中韓芸術祭2021in北九州」が10月25日に北九州市立美術館で開催された。「日中韓芸術祭」は日中韓の伝統文化や現代芸術の紹介を目的に14年から始まった3カ国共同事業で、毎年持ち回りで開催されている。日本が開催国の今年は東アジア文化都市である北九州市で開催。南條史⽣キュレーターをスーパーバイザーに、メディアアーティストの落合陽一が総合演出を担当し、ホログラム技術を活用したデジタルショーを発表した。テーマは「デジタル時代に花開く,時空間を超えたパッチワーク」。⽇本・中国・韓国の装いの⼟着性やその⽂化の根底に流れるサステナビリティを共通のコンセプトに掲げる。落合陽一が考えるサステナビリティとは?都内で事前に行われた撮影現場で話を聞いた。
WWDJAPAN(以下、WWD): SDGsとファッションとデジタルを組み合わせて何を伝えようとしているのか教えてください。
落合陽一メディアアーティスト(以下、落合):何を伝えるかそれほど固めていません。どちらかというと素材を集め、デジタルのパッチワークをすることで何が生まれるだろう、という感覚です。
WWD:モデルには冨永愛はじめ多様性あるモデルを起用しています。パッチワークはどこに向かっているのでしょうか。
落合:自分はメディアアーティストであり、やっていることはずっとぶれていません。自然と共生する新しいデジタルとは何か、「デジタルネイチャー」の探求です。だから演出するショーごとにコンセプトを大きくは変えません。今回のテーマである「デジタル時代に花開く、時空間を超えたパッチワーク」の裏にある話としては、デジタルネイチャーという新しい生態系において人はどういう形をしているのだろう?民芸のような古いものの価値はどう高められていくのだろうといったこと。最終的にどういう形に落ち着くかは料理しないとわかりません。フランス料理か日本料理か中国料理かと聞かれるなら「計算機自然料理」です。味はまだ分からない。
WWD:ゴールは明確だけどどんな味になるかはわからない、それはおもしろいですね。
落合:結構おいしく仕上がりそうです。カメラのチームが良いことは最初からわかっていましたが、モデルさんもよいし、スタイリストさんもよく、ヘアメイクも服もよい。撮影は現場でハマってみないと相性が良いか分からないですよね。
日本のぼろと「スノーピーク」は相性がとてもいい
WWD:服は、日本のぼろ(襤褸)に加えて「ユイマ ナカザト(YUIMA NAKAZATO)」、日本環境設計の「ブリング(BRING)」を使った「スノーピーク(SNOWPEAK)」とバリエーションに富んでいます。これらを選んだ理由を教えてください。
落合:フィジカルのパッチワークと言えば唯馬さんじゃないですか?ぼろは継ぎはぎを繰り返して長い年月着られ続けてきた、いわば“アナログパッチワーク・オブ・ジ・エンシエント・トラディショナル・カルチャー”。受け継がれるぼろは、あの上で子供が生まれ、寒い夜はドンシャンと呼ばれる夜着に数人で包まり寝た。その中で亡くなる人もいたでしょう。服を着る本質的な理由は防寒であり、ぼろは防寒の極み。そしてキャンプやアウトドアファッションの基本は防寒や機能。キャンプから誕生しサステナブルな材料を使う「スノーピーク」はぼろとの相性はとてもいい。「われわれはキャンパーなのだ、都市で」みたいなメッセージを受け取ります。
WWD:「スノーピーク」の素材が再生ポリエステルであることは重要でしたか?そういえば「ブリング」の工場も北九州市にありますが。
落合:重要です。循環する素材のほうが面白いですから。
WWD:⽇本・中国・韓国の装いの⼟着性やその⽂化の根底に流れるサステナビリティを共通のコンセプトに掲げています。詳しく教えてください。
落合:人類がつくってきた文化的活動は、常にアーカイブがあります。デジタル以降は古今東西から集めてきた断片的なコンテクストが、何らかの形をしていることが非常に気持ちがよいと思うようになりました。それは日本から来たのかもしれないし、中国から来たのかもしれないし、韓国から来たのかもしれない。そして、それが一点通じて華厳や老荘思想になる。
⽇中韓の⽂化の根底に流れているものを考えたとき、真っ先に浮かんだのは物化・華厳・⺠藝・侘寂などの東洋的美的感覚と世界観の中に構築される持続可能なデジタルの⾃然です。一は全、全は一。一瞬の中に美学を見て茶室の茶の中に宇宙がある、老い木に花の世界など華厳的思想は老荘から生まれて半島伝来して日本にやって来たわけですよね。そして今はデジタルネイチャーです。1980年のナムジュン・パイク(Nam June Paik)の⾔葉を借りれば、リモートコラボレーションが当たり前になったわれわれは「定在する遊牧⺠(stationary nomad )」とも⾔えます。地球上のあらゆるところからデジタルの⾃然に接続され,共⽣し饗宴することができるようになりましたから。
ナムジュン・パイクは多分、完全に正しい
WWD:ナムジュン・パイクはビデオアートの父と言われるアーティストですね。
落合:ナムジュン・パイクが1980年に「アートフォーラム」という美術誌に書いた「ランダム・アクセス・インフォメーション」という寄稿文があり「60キロの体を動かすのに60キロの体しか動かさなかった人類が、60キロの体を動かすために300キロの車を動かすようになったから、石油を使うようになった。これは最も愚かしい」といった意味のことを書いていて、おもしろい。その解決策として彼が言い出したのが、われわれがステーショナリー・ノマド=定住する遊牧民になることです。世界中に電子情報としてものを送り合う世界が来ればわれわれは動かなくていい。そうすれば石油問題を解決できると。今思うと本質をついている。ナムジュン・パイクは多分、完全に正しい。
ただ、「ステーショナリー・ノマド」に欠けていたものは何かと言えば、多分、質量への憧憬です。電子情報を送れば人が存在できるという点は完全に正しいけれど、コロナで強制ロックダウンされたことで身体性への飢えが発生するといったところまでは彼も考えが及んでいなかったと思う。人間には質量への憧憬があるから、ステーショナリー・ノマドになり切れない。だからその間にあるものをうまく取り持つみたいなところが、ここ数年の僕のテーマです。デジタルから見た身体性、質量への欲求は一体何なのか?今回パッチワークの素材のひとつにサイアノタイプという鉄を使ったプリントを使ったのも、質量がないデジタルを質量のあるフィジカルに変換する喜びみたいなことからです。
WWD:インスタレーションの本番ではそれをホログラムで見せ、12月には一般配信もあるそうですね。
落合:空間に映像を直接表示するディスプレーをLEDで作ります。身体からデータになり、データが自然となびくところを表現したい。質量性のあるボロとうまいコントラストが出ると思います。
僕らの世代はデジタルからフィジカルに戻すことに愛着が湧く
WWD:以前、インタビューで「何をかっこいいと思うか、その感覚は幼少期に決まる」といったことを話されていました。落合さんが考えるかっこよさとは?
落合:忘れられて消えてしまうデジタルデータと、古めかしくて触れると壊れてしまうものを観察する喜びの間に、今の時代のかっこよさがあると思う。この質量への憧憬が漂う時代においては重要な価値観だと思います。ナムジュン・パイクはデジタルネイティブじゃなかった。彼が写真を見たときにケミカルプロセスを考えたのは、写真との出会いがフィルムからだったからですよね。僕の世代は写真との出会いはデジタルからで逆にフィジカルに戻すことにものすごい愛着が湧いたりするわけです。その感覚が表現されるといいなと思っています。
ボロは壊れそうだけど美しい。どんどんトランスフォームしていく。「ユイマ ナカザト」の服もこうやってトランスフォームしていく。でも、トランスフォームする最大のものを僕はデジタルだと思う。トランスフォームしまくるデジタルであるが故に、質量ある形を与えてもっと愛してあげたいっていつも思っているけど、質量ある形を与えると、壊れて死んじゃうから、そのギリギリのラインがフルデジタル時代のかっこよさなのだと僕は信じています。
WWD:ニューヨークのMOMAが2019年にリニューアルした後にパフォーマンス用のエリアを設けるなど、ここにきて消えてなくなるもののアート性が重視されているように思います。
落合:おもしろいですね。ちなみステーショナリー・ノマドという言葉が出てくる数行前でナムジュン・パイクが言っているのは、歌や口語、ダンスや音楽みたいに形が残らない芸術は過去50万年間、支配的であったのに、農耕を始めた人類が壁に描いたり彫刻を彫ったりと持ち運べない芸術を作り始めたと。20世紀はそれを成功させてきたが、形を持たない無形のジャンルへ芸術を戻していくことも意味があると言っていました。
形のないものは質量のないもの。古来、芸術ってほとんど質量がないものでした。質量がないものから突然、質量があるものが生じたのではなく、定住することによって生じた。今、だから定住することの意味を逆にデジタルの側に発散していくと、あらゆるものは形あるものから形のないものへ、そして形ないものから形あるものへというトランスフォームが起こる。それを文化的に着目し続けるのに意味があります。
WWD:日本のカルチャーは戦後、ファッションはじめアメリカから大きな影響受けてきました。けれどここにきて、長く使うことをよしとするヨーロッパ型の価値観が大事だな、と言われ始めている。この点についてはどう思いますか?
落合 石の文化ですね。広がると思います。僕は新品を買う行為をあまりかっこよくないと思っています。例えば使っている「ライカ(LEICA)」のレンズは1960年のレンズで、過去50年間誰かの手を渡って僕のところにやって来ている。「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」が好きで、高校生のときに買ったヨウジの服を今でも着ています。破けているし、ペンキが付いたりしているけどその方がカッコいいじゃないですか。別に新しい物買うよりリメークしたほうがかっこよくない?とか、ほつれが生まれた瞬間がオリジナリティーであるとか、“小汚い服”ではなく“あなた色になった服”であるとか。そういったことをみんなが意識するようになることが、僕は大切だと思っています。