星は、ひときわ明るく輝いた分、あっという間に消えてしまった。
「オフ-ホワイト c/o ヴァージル アブロー(OFF-WHITE c/o VIRGIL ABLOH)以下、オフ-ホワイト」の創業者であり、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」のメンズ・アーティスティック・デザイナーだったヴァージル ・アブローが亡くなった。まだ41歳だった。
11月29日朝5時、いつもより少しだけ早起きしたから立ち上げたインスタグラムで見つけたのは、ヴァージルと双璧を成すメンズ界の二大巨頭、キム・ジョーンズ(Kim Jones)の投稿だった。「誰よりも優しかったヴァージルの死去を聞き、悲しんでいる。共に旅をして、ホテルではクリエイションに励み、日本の雑誌を読み漁り、笑い、そして話し合った思い出が蘇る。残された家族のことを思うと……」という。「まさか」と米「WWD」のウェブサイトにアクセスし、本当に亡くなってしまったことを知った。記者という仕事は、「最速」になれることに興奮する仕事だ。1時間くらいでアップすれば、国内「最速」のメディアになれることは間違いない。実際、国内最速だった。ただ、興奮はしていなかった。形容し難い不思議な気持ちは、今も続いている。
今はファッションの“ど真ん中”にいるつもりだが、大学を卒業してしばらくは地方でファッションの世界に憧れていた自分にとって、そして、性的マイノリティーである自分にとって、ダイバーシティーとインクルージョンの象徴であるヴァージルは、大げさではなく「希望の星」だった。私が初めてちゃんと取材をしたのは、2016年の1月。16-17年秋冬シーズンのパリ・メンズ・コレクションで初めて「オフ-ホワイト」のメンズのランウエイショーを開いたときだった。マルチな才能を持つから肩書きに「兼」を意味する「スラッシュ(/)」がたくさんある人“スラッシャー”を特集した14年以来気になる存在で、15-16年秋冬のブルゾンとショートパンツを購入したが値段に驚きもしたストリートブランドのパリコレデビューだった。得意なのはグラフィティを多用したストリートスタイルのハズなのに、序盤はヘリンボーンのジャケット&パンツにチェスターコートなどのフォーマルを連打。ショーの終了後に話を聞くと、「ストリートのコンテクスト(文脈)で解釈した、メード・イン・イタリーのテーラードスタイルは、アメリカで生まれた『オフ-ホワイト』のパリコレデビューにふさわしい」という。ストリートとモードの融合、フォーマルとカジュアルのミックス、アメリカとミラノ、そしてパリを股にかけるクリエイション。それを「コンテクスト」という、当時デザイナーはそんなに使っていなかった言葉で語る。クリエイション、特にパターンはモードに比べてシンプルだが、そこに至るまでの思想はモード同様に複雑。いやシンプルな洋服だからこそ、その背景には複雑な思考や思想が潜んでいないと成立しないラグジュアリー・ストリートという世界の深淵を垣間見たような気がした。
気付くと彼は、モードとストリートどころか、ハイとロー、ファッションとライフスタイルなど、さまざまな両極に位置するものを融合することで、双方の世界の住人を熱狂させるようになっていた。「ナイキ(NIKE)」や「イケア(IKEA)」とのコラボレーションは代表例。「WWDJAPAN」を作る組織の中でも、それまでちょっと遠かったモードとラグジュアリーの担当者が共にヴァージルで盛り上がったり、当時40歳目前だった私は新卒の若手からストリート事情を、逆に私は彼にモードの世界を伝えてそれぞれの知見を深めたり、異なる世界を繋ぐことは、異なる人同士の対話を生むことを体感した。「一国主義」と呼ばれる政治理念で賛否両論だったドナルド・トランプ(Donald Trunp)が大統領に就任した17年1月を前後に世界中でダイバーシティーやインクルージョンという社会的価値を尊重する機運が高まると、ヴァージル の存在感はさらに高まっていく。そして18年3月、ヴァージルは「ルイ・ヴィトン」のメンズ・アーティスティック・ディレクターに就任。圧倒的規模感のラグジュアリー・ブランドには、人種も、世代も、信条も、性別さえ超越した広汎なファンづくりが求められる。その中心的な役割を彼が担うことは楽しみだったし、同時に、こんな英断ができる「ルイ・ヴィトン」というブランドに改めて敬意の念を抱いた。
6月に発表したコレクションには、感動して、泣いた。半年前、キム・ジョーンズのラスト「LV」でも泣いていたから、「ルイ・ヴィトン」というブランドには、2回連続で泣かされた。ショーの前から、ビジョン・ドリブンなヴァージルの細部に至るまでのダイバーシティーとインクルージョンのメッセージには感動していた。誰もがフロントロー(一列目)に座れるようにと願った長い長いランウエイ、そのランウエイを彩ったレインボーカラー、世界中でファッションを学ぶ学生と、お披露目するコレクションを実際に生み出したアトリエのスタッフの招待。たまたま後ろに並んだアトリエのスタッフに話を聞くと、「すぐ近くのオフィスで長年働いているけれど、ショーに招かれるなんて初めて。ファッションショーって、こんなカンジなのね。私が作ったバッグも出るのよ」と楽しそうだった。そしてショーは、音楽の世界からやってきた仲間の黒人モデルによる純白のルックからスタート。純白は次第に色を帯び、最後は七色がマーブルのように入り混じる。フィナーレは、師であるカニエ・ウェスト(Kanye West)との抱擁。そして、ヴァージルの涙。もう涙を抑えきれなかった。その後プレスリリースを読むと、今回のショーには、南極大陸を除く全ての大陸からモデルを起用したことなどが書かれていた。微に入り細に入り、あらゆるコンテクストでダイバーシティとインクルージョンを表現するという点において、彼の右に出るものはいないだろう。
すっかり有名になってからの取材は、初めてのショーの1年後にやってきた。雑誌「ペン(PEN)」からのリクエストを頂戴し、彼のアトリエで、膝を交えて話が聞けた。アトリエは、工作室と実験室を掛け合わせたような空間だった。どこかの空間を模したミニチュアを筆頭に、いろんなモノが、バラバラになっている。クリアケースの中には、「ルイ・ヴィトン」でのクリエイションにおいて当初アイコニックなモチーフになったチェーンが色別に収められている。サンプルを手に取りながら、足したり、引いたりするのだろう。インタビューの最中、ヴァージルはずっと「ペン」を読んで、気になるページをスマホで撮影。時にはメッセンジャーでだれかに写真を送っているようだった。昔なら、「インタビューの最中に、なんて失礼なんだろう?」と気を悪くしたと思う。しかし、好奇心の塊は、こうしてインプットとアウトプットを続ける生き物なのだろうと思うようになっていた。双璧をなすキム・ジョーンズも、インタビューの最中は同じようなカンジだからだ。むしろ「ファッション業界のためにも、彼らのインプットを止めてはいけない」とさえ思うようになっていた。後日、その思いは正しかったことが証明される。ヴァージルを見出した、「オフ-ホワイト」の親会社を率いるダヴィデ・ドゥ・ジーリオ=ニューガーズ・グループ(NEW GUARDS GROUP)会長兼CEOが、「もう古臭いパソコンは捨てた。クリエイションさえ、『ワッツアップ』があればいい。スマホで『ここは、こうしてほしい』や『そこは、もっと大きくしよう』『あれは、やめよう』ってやり取りすれば、全員に伝わるから」と「オフ-ホワイト」の最新コレクションに関するスレッドを見せてくれた時、ヴァージルのスマホ時間を奪わなくてよかったと心の底から思った。
冒頭に話したパリメンズデビューに際してのインタビューで、ヴァージルは最後に「プレタで革命を起こしたイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)や脱構築的な洋服で金字塔を打ち立てたマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)、全く新しい女性像を描いたフィービー・ファイロ(Phoebe Philo)のように、ニュー・スタンダードを作りたいんだ」と話していた。その時からわずか5年半。私にとって、いやファッションの歴史において彼はダイバーシティーとインクルージョンのニュースタンダードを築いてくれた人物だから、夢は叶ったのだと思う。でも、もっともっと、その夢を楽しみたかった。今はまさにこれから、ダイバーシティーとインクルージョンの価値観が花開く時だから、残念な気持ちが募る。