2021年秋、神戸の老舗専門店「ブティックセリザワ(BOUTIQUE SERIZAWA以下、セリザワ)」が3代目から4代目への代替わりを発表した。「セリザワ」は1903年(明治36年)創業、絵画や額縁などを販売した芹澤商店を基盤とし、戦後の46年に、洋服の小売業に進出した。“神戸ファッション”という言葉がまだ生まれる前から、海外のファッションをいち早く取り入れ、広めてきた老舗企業だ。3代目の芹澤豊成社長の娘夫婦である森山卓司取締役、芹澤麿衣取締役を取材した。
新世代の「セリザワ」の挑戦を語る前に、まずは神戸という街とファッションの関わりの歴史や、「セリザワ」の成り立ちを紹介したい。幕末から明治期にかけ開港した神戸には、ジャズや映画、ファッションなどの海外文化が一気に流れ込んだ。開港翌年には日本最古のテーラーができ、神戸で作られた紳士服のことは“神戸洋服”と呼ばれた。次第にファッションの最先端として注目を集め、そのムーブメントは全国へと広がり、富裕層に愛される憧れの存在となっていった。
独自のハイカラ文化を構築した神戸は、当時の日本の流行発信源の一つ。芹澤商店はそんな街で産声をあげ、日露戦争、第一次世界大戦、戦間期の好景気と世界恐慌、太平洋戦争など、激動の時代を幾度も超えてきた。神戸大空襲では街は焼け野原と化し、多くのものが壊滅したが、敗戦後は人々の「世を良くしよう」という思いが力強い灯火となり、徐々に街に息づいた。その中の一つに、商店からブティックに名前を変えて再起を図る「セリザワ」の姿も混じっていた。
敗戦後の女性の心を潤したファッション
戦後の大丸神戸店は、多くの進駐軍で賑わう日本人禁制の米軍のPX(軍の売店)となっていた。PX前に店を構えていた「セリザワ」へ、米国のカタログ販売企業、シアーズ・ローバック(2018年に経営破綻した米百貨店シアーズの前身)のカタログを抱えたアメリカ人の女性将校がふらりと来店。すらりとした長身の彼女は、カーディガンの袖を通さず肩に羽織るだけというスタイルだった。出迎えた2代目の芹澤豊男社長(当時)にとってそのスタイルは格好良く斬新なものに映り、衝撃を受けたのだという。同時に世界中で話題を集めていたシアーズ・ローバックのカタログを持っていたことにも目が釘付けになったという逸話が残されている。
豊男氏がその衝撃を女性将校に伝えたところ、将校はカタログに掲載されていたカーディガンを1枚取り寄せてくれた。それを解体し、型を丹念に学んだ豊男氏はカーディガンを商品化して「セリザワ」で販売。その結果、一瞬で完売したそうだ。この経験から、「戦後の女性の心を潤すものはファッションに他ならない」と確かな手応えを得た。これが、ファッションの「セリザワ」の原点だ。
ファッション感度が高く、美貌も誇った豊男氏の妻、禮江(ひさこ)氏の存在も大きかった。ファッションをこよなく愛した彼女は、豊男氏と共に店の経営を担い、デザインルームを担当。今も神戸・元町の本店4階に残るミシンがずらりと並ぶクチュリエの部屋で、洋服を作り出した。ウインドー越しに往来する外国人女性の装いに見入り、「ヴォーグ(VOGUE)」などの洋雑誌も幾度も眺めていたという。夢中で仕事をする禮江氏のことを、スタッフたちは“ママちゃん”と呼んで親しんでいたそうだ。
何もかもが新鮮で、初めて見るものばかり。そんな西洋ファッションに心を踊らせた禮江氏は、コルセットから女性を解放したと言われる「シャネル(CHANEL)」や、「エミリオ・プッチ(EMILIO PUCCI)」によるジャージードレスに着目。「神戸女性はエレガントなものを好む、一方で活動的な性質を持つ。ジャージードレスは注目を集めるに違いない」。そう予感した。そこで「エミリオ・プッチ」の取り扱いをスタートし、フレンチブランド「ベッシー(BESSI)」の直輸入も開始した。
この頃(1954年)、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)が2番目の夫である野球選手のジョー・ディマジオ(Joe DiMaggio)と新婚旅行で神戸の旧オリエンタルホテルに宿泊したことがニュースとなった。その影響もあってか、クリスチャン・ディオール(Christian Dior)が流行させた“ニュールック”風の装いを楽しむ女性たちが神戸の街を彩ったという。華やいだ1950年代の神戸で、ファッションの「セリザワ」の存在は大きかったであろう。
サロンとして、紳士淑女の社交場に
今では婦人服専門店となっている「セリザワ」だが、かつては紳士服店も運営していた。分厚い木材とガラス材を組み合わせた、重厚でモダンなエントランスの紳士服店には、戦後、世界に精通する知識人や文化人などが集い、粋な会話を交わしながらお気に入りの服をこぞって求めたという。まるで西洋のサロンのように、大人の男性たちの社交場となり、その名を高めていた。
婦人服と紳士服の両翼を羽ばたかせ、時流に乗った「セリザワ」は、65年頃には全国に10数店を展開するようになった。神戸の人々から「セリザワ」が信頼を集めていたことを物語るこんなエピソードがある。89年に日本で公開されたハリウッド映画「ブラック・レイン」の撮影の際、顧客によって映画会社へ推薦される形で、店が撮影クルーのメイクルームとして使用されたのだ。俳優の高倉健氏や小野みゆき氏なども店で衣装替えをしたのだという。
順風満帆だった「セリザワ」に予期せぬ出来事が次々訪れる。バブル崩壊で事業縮小を余儀なくされ、追いうちをかけたのが95年の阪神・淡路大震災だ。元町の本店は半壊し、ウインドーは粉々に散った。本社のあった三宮交差点の北西に位置する神戸交通センタービルも倒壊。街の交通網は麻痺、経済機能は停滞した。その状況は簡単には元通りにはならない。当時会社を率いていた豊男氏は、自社の被害が甚大であったことに関わらず人々の心の復興への願いを込め、神戸市に金色の「マリーナ像」を寄贈したという。
数多の苦難を乗り越え培われた広い心とタフな精神を持ちつつも、時代のうねりには逆らえない。店舗数を縮小し、顧客が減少した元町の紳士服店は2007年に閉じた。現在は神戸に2店、姫路に1店の3店の規模となったが、創業118年という歴史と長きにわたり足を運ぶ顧客は「セリザワ」にしかないもの。20年からのコロナ禍でも、そうしたコミュニティーが店を支えており、厳しい環境下でも老舗の底力を発揮している。