国内外問わずさまざまなスポーツメーカーを取材し始めて7年目。派手なPRが得意な企業からコツコツタイプの職人肌なブランドまで、各社の特徴は本当にそれぞれです。中でも、世間的な注目を最も集めている企業の一つが、設立50周年を迎えたナイキ(NIKE)でしょう。同社の2021年5月通期決算の年間売上高は445億3800万ドル(約4兆8546億円)で、アディダス(ADIDAS)の21年12月通期決算が同212億3400万ユーロ(約2兆7179億円)ですから、スポーツ市場では未だに頭一つ抜きん出た状態といえます。
そんなナイキが、アメリカ・ポートランドの本社で“デザイン”についてのビジョンを発表するイベントを4月20日に行うとのことで、現地まで取材に行ってきました。“デザイン”というと多くの人がスニーカーやアパレルなどの、プロダクトデザインをイメージすると思います。僕もてっきり新作スニーカーの発表がメインのイベントなのだと予想していました。しかし、実際は予想をはるかに超える規模でナイキの“デザイン力”を目の当たりにすることになったのです。
ポートランドはこんな街
移動当日は成田空港からサンフランシスコを経由し、ポートランド空港へ。空港からダウンタウンまでは車で30分弱で、道中は大きな川や木々の緑が横目に通過していきます。ポートランドは自然に囲まれたコンパクトな街で、現地に詳しい人いわく、街の観光は1日あれば十分とのこと。緯度は日本の北海道と同じで、10月から5月までは雨ばかり。今回の出張では天気に比較的恵まれてはいたものの、青空から急転して小雨が降ってきたり、本降りから一気に晴れたりと、まるで「フジロックフェスティバル(FUJI ROCK FESTIVAL)」にいるような天気でした。
イベント前日は、ナイキに36年間務めた故サンディ・ボディッカー(Sandy Bodecker)の自宅で開催されたレセプションへ。場所はポートランドの閑静な住宅街です。同氏は1982年に入社し、2018年に死去するまでさまざまな功績を残しました。例えばフットボールカテゴリーを本格始動させたり、フルマラソン2時間切りを目指すプロジェクト“ブレーキング2(BREAKING2)”を考案したり。さらにスケートボードブランド「ナイキ SB」では数々の人気シューズを手掛けており、自宅内にも大きなスケボーのボウルがあります。何てかっこいいんだろうか。こんな家に住んで、「今日雨だし、うちで滑る?」とか言ってみたい。
いよいよナイキ本社へ
いよいよイベント当日。街の中心から車で約20分ほどかけて本社に移動します。郊外を車でしばらく走り、住宅街を抜け、オフィス街を通過し、時間的にはもう少しで到着するはず。いったいどんな場所なのだろうと期待していると、なんと目的地にはすでに着いていました。オフィス街だと思っていた場所が本社敷地だったのです。ビバートンに構える本社ナイキ ワールド キャンパス(NIKE WORLD CAMPS)の面積は約97万平方メートル。人間の動きや競争の力などに着想したデザインのさまざまなオフィスに加え、大きな池や森もあります。何て広いんだろうか。こんな場所で働いて、「そっちで打ち合わせ?こっちから移動に10分かかるから小走りで行くわ」とか言ってみたい。
新社屋はあのアスリートの名前
本社敷地に圧倒されながら歩いていくと、今回のメインイベントの一つである新社屋セリーナ・ウィリアムズ ビルの前に到着。そう、“史上最強のテニスプレーヤー”と称されるセリーナ・ウィリアムズ(Serena Williams)の名を冠したビルなのです。本社にはほかにもマイケル・ジョーダン(Michael Jordan)やレブロン・ジェームス(LeBron James)、タイガー・ウッズ(Tiger Woods)、クリスティアーノ・ロナウド(Cristiano Ronaldo)、マイケル・ジョンソン(Michael Johnson)ら、さまざまなトップアスリートの名を冠した施設があり、選手への深いリスペクトを感じます。
セリーナ・ウィリアムズ ビルの延べ床面積は9万2903平方メートルで、テニスコート140面分の広さだそうです。広すぎてちょっと例えがピンときませんよね。メインタワーを中心に、フェノム、ウォリアー、ミューズという名の3つのウイングがつながります。ポートランドの建築会社スカイラブ・アーキテクチャー(Skylab Architecture)が、ナイキのCEOを約14年間務めたマーク・パーカー(Mark Parker)=エグゼクティブ・チェアマンと共に設計しました。主にクリエイションチームがここを拠点にし、デザイン、コンシューマーインサイト、アパレル&フットウエアプロダクトマーチャンダイジングなどさまざまなチームが仕事を行います。
細部へのこだわりも抜かりなく
ただアスリートの名前を冠しているだけではありません。ビル全体で、セリーナが歩んできたストーリーをデザインしています。外壁にはイニシャルのSとWを組み合わせたロゴが付き、壁の色には彼女が好きなパープルを採用し、椅子には好きな花のバラをかたどったエンブレムの番号を振り、ロビーには彼女がメジャー大会で優勝した23回に合わせて23本の柱が建ちます。併設する4つのフードスペースは、USオープンカフェ、ウィンブルドンレストランなどテニスの4大大会にちなんだネーミングです。
ほかにも、ナイキ創業者のフィル・ナイト(Phil Knight)とビル・バウワーマン(Bill Bowerman)のストーリーや、地元オレゴンの自然への思い、そして所縁の深い日本への敬意も全てビルのデザインで表現しているのです。さらに、目に見えない部分にもナイキらしさが隠されています。建材の20%以上が地域で収穫・製造された再生材料だったり、648枚のソーラーパネルを設置したり、貯水した雨水をビルのトイレに使ったりと、サステナビリティに注力する同社のスタンスをデザインで示していました。
新作シューズはいろいろすごかった
ビルを巡っているだけで情報量満載なのですが、イベントではデザインに関するセッションが続きます。デザイン部門を率いるジョン・ホーク(John Hoke)をはじめ、サステナビリティと、ダイバーシティ、エクイティ&インクルージョンの重役が登場し、それぞれのテーマがいかにデザインと深く結びついてるかを話しました。セッションの内容は別の機会にリポートしますね。
そのサステナビリティセッションで登場したのが、新作スニーカーの“ISPA リンク(ISPA LINK、以下リンク)”と“ISPA リンク アクシス(ISPA LINK AXIS、以下アクシス)”です。“ISPA”は「ナイキ」でも実験的なアプローチが多いカテゴリーで、今回はなんと“分解してリサイクルできるスニーカー”だそうです。新しい。
6月発売の“リンク”(税込2万7500円)、23年初頭発売の“アクシス”(価格未定)共に、アッパーの穴にソールの突起を差し込んで組み立てます。自分で組み立てるには少し慣れが必要かなと感じましたが、この構造によってのり付けの接着作業が不要になり、既存のシューズ生産の工程で発生する冷却、加熱、ベルトコンベアなどのエネルギー消耗を抑えられるといいます。この分解できる仕組みにより、例えばソールは消耗しているけれどアッパーはきれい、という状態であれば、新しいソールに既存のアッパーを付け替えて使うことができるかもしれません。まさに、サステナビリティを具現化したデザインです。
また“アクシス”のアッパーは100%再生ポリエステルのフライニットを、ソールに用いたTPU(熱可塑性ポリウレタン)はエアバッグ素材のスクラップを使った100%リサイクル原料です。2モデルは個性的な見た目が印象的ではあるものの、40人のアスリートが試作品を200時間着用し、安定感や通気性などの機能性も実証済みです。
“デザインカンパニー”の強さ
イベント最後は敷地内のクリエイティブスペース、ブルー・リボン・スタジオ(BLUE RIBBON STUDIO)へ。このスペースは、同社に約1000人いるデザイナーたちが、自由な発想で作りたいものを作る図工室のような場所です。ここを作った目的はデザイナーたちのクリエイティビティーを保つためで、内部には遊び心溢れるユニークな作品がたくさん並んでいます。この日いたたくさんの若手スタッフは、みんなかっこよくて生き生きしています。ナイキの未来を担う、若い才能の“デザイン力”にも投資を惜しまない姿勢が伝わってきました。
今回のイベントで、ナイキがいかに“デザイン”を大切にしているかが十分すぎるほど実感できました。最初はその規模に驚いたものの、本社施設も、新オフィスも、プロダクトも、これ見よがしな感じは一切なく、全てのデザインに背景や意志が分かりやすく表現されているため、“圧倒される”というよりも“納得する”感覚でしょうか。アスリートへの敬意もデザインで、サステナビリティもデザインで、そして社員のモチベーションアップもデザインで――ナイキの強さは、この多角的なクリエイティビティーなのだと確信しました。規模の大小はあれど、デザインに惜しみなく投資するアプローチは、さまざまな業種にもヒントになりそうです。