ユナイテッドアローズの名誉会長で、日本服飾文化振興財団の理事長を務める重松理が、「ポパイ」「ブルータス」「ターザン」などの創刊編集長を務めた雑誌編集者である石川次郎氏と組み、今年3月に「日本現代服飾文化史 ジャパンファッションクロニクル インサイトガイド 1945~2021」(発行・講談社エディトリアル)を発行した。二人のレジェンドは、なぜタッグを組み、書籍を発行したのか。4回目のテーマは、「日本のファッションとジーンズ」。レジェンドの二人の人生を変えたファッションアイテムとは?
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――今日はかれているのも「リーバイス」ですね!? 次郎さんぐらいの世代からですよね。ジーンズをはくようになったのは。
石川:そう。僕はもう「リーバイス」しかはかないようになっちゃった。重松さんより8歳上ですが、この差が大きな違いだと思います。僕は56年かな、中学校から高校に上がる春休みに1本の映画を観て洋服に目覚めました。それが「理由なき反抗」です。ジェームス・ディーンの。何も知らずにあの映画を観て、あんまりにも日本の高校生と違うので驚いて。アメリカでは高校生が車を運転してるんだから。ジャケットなんかを着て。なんかすごいなぁと思って。その時にジェームス・ディーンがはいていた「リー(LEE)」の101のジーンズがものすごいカッコ良かった。でも信じられないだろうけど、その当時、日本ってジーパンを売っていなかったの。あるのは、在日米軍の兵士たちが朝鮮戦争に発つのに置いていった古いジーンズだけ。アメリカのアーミー(陸軍)、ネイビー(海軍)の軍服と一緒に廃品という感じで送られてきたものの中から、一生懸命探してはいていた時代だった。僕も映画の後、すぐジーパンを買いに行きましたよ。そんな時代だったので、ジーンズに対する想い入れが強く本当に憧れていた。「ジーンズは、アメリカの生活そのものだ」と感じたんですね。
――当時、ジーンズを買い物に行ったのは上野のアメ横(アメリカ横丁)だったんですか?
石川:アメ横ですね。古いジーンズの山の中から、自分の体に合いそうなものを探して。あんまりカラダに合わなかったけどね。しかも当時で2000円ぐらいしていたから、母親に「なんでこんな汚いものにお金を使うのか?なんでこんなの欲しいのかわからない?」とまったく理解されなかった。数年後にはでいくらでもジーンズは手に入るようになったけど。それまでいいジーンズは高くて買えなくて。湘南の海で立教大生と喧嘩をしたことがあった。喧嘩相手のことはよく覚えてないんだけど、彼がはいていた「リー(LEE)」の新品のジーンズがカッコ良くてね。羨ましくてそればっかり目についちゃった(笑)。
重松:自分もファッションの転機はたくさんありますね。一番初めにファッションを意識したのがロカビリーで、ジーンズを見たのもロカビリーからでした。映画からもたくさん影響を受けましたね。ジーンズはわれわれの世代のころには学生服屋さんで売られていました。ジーンズの新品に目が入ったのは13歳ぐらい、1961~62年ぐらいの頃でしたね。高校に入った頃には、新しいものは買おうと思えば買えるけれど、ちょっとはき古したようなものが欲しくて。神奈川出身なので、アメ横と同じような機能を担っていた、横浜の(伊勢佐木町と野毛の間の)吉田町にあったジーンズの古着屋に通っていましたね。
他にもすごいこまごまとたくさんきっかけがありましたね。64年の東京オリンピックを境に、みゆき族も台頭しましたし、当然、先ほども話に出たVANヂャケットの存在が男性の服にものすごい影響力を持っていました。一つのセオリーやオケージョンなど、われわれが「型」と呼んでいる、オーセンティックス、一つの規則が明らかになり、流れができました。ただ、自分たちはちょっと外れていて、古着のパンツや米軍の横流しのものを買っていました。それに比べると、VANは日本ナイズされていて、サイジングなどが少しおかしいんですよ。アメリカの映画で見るような若者の恰好にはならなくて、体にピタッとなって、なんだか真面目な子みたいになっちゃうんですよ。だから、VANの石津謙介さんにはいつも申し訳ないなと思っていたけれど、靴下1足とプルオーバーのシャツ1枚しか買ったことがないんです。あとは全部古着とか、本当のアメリカのものを買って着て育ってきました。
そして、「平凡パンチ」のファッションページですよね。小林さんのイラストに大きな影響を受けて、「本物が見たい」「本物が欲しい」と熱くなって。当時はまだ海外に行っていなかったですからね。67~68年ぐらいの時期ですかね。ウッドストックもとても衝撃的な出来事で、髪も伸ばしていました。でも、ロンドンやパリに新しいファッションの流れがあることを見て、「これからはアメリカじゃないんじゃないか!?」という感じになって、ロンドンブーツを履いたり(笑)。ロンドンポップなんて完全にロックミュージシャンの恰好、ステージ衣装ですからね。それをロンドンのカーナビ―ストリートなどではみんな普段着で着ていたんですから。「平凡パンチ」の小林泰彦さんのイラストで知り、実際に現地に行き、「ほんとにこういう格好してるんだ~!」って確認ができるわけで。日本で手に入らなければ、そのイラストに合うものをオーダーで作ったりもしていましたね。髪を長くしたり短くしたり、アメリカのローファーを履いていたと思ったらロンドンブーツのハイヒールになっちゃったり。とんでもない流れで、本当に大変な時代でした(笑)。面白い時代でしたけどね。その当時、「ファッションは風俗」と言われていて。風俗といっても今とは全く違う使われ方で、一つの大きな社会の流れと捉えられていたんです。まぁ、本当にその都度その都度影響を受けて、いろいろなものを見て、今に至るわけです。
石川:本当にみんなロンドンブーツを履いていましたからね。ちなみに、ロンドンポップで一番面白いころのロンドンに仲間をみんな連れていったことがあります。加藤和彦の奥さんのミカ(サディスティック・ミカ・バンドのボーカルの福井ミカ)や、(スタイリストの)堀切ミロ、(「オリーブ」「アンアン」「ギンザ」「クウネル」の編集長を歴任した)淀川美代子、イラストレーターの大橋歩、今野雄二など20人ぐらいで団体旅行をした。1970年代初頭の正月に。石坂敬一という有名な音楽プロデューサーは、行きはウグイス色のダッフルコートを着てたのが、帰りはアフガンコートで丸眼鏡をかけて、ジョン・レノンみたいになっちゃって、行きと帰りは大違い。それくらいみんな影響を受けていましたね。行けなかった加藤君用にミカが山ほど服を買ってね。いろいろな店を案内するのが僕の役目だった。
――次郎さんの本にはたくさんの付箋が貼られていますが?
石川:今回、入れられなかったテーマもかなりあって、例えば重松さんも影響を受けたというロカビリーなんかがそうです。山下敬二郎やミッキー・カーチスの恰好などが大きな話題になった日本のロカビリーは入れる必要があったなと思っています。
重松:日劇ウエスタンカーニバルという音楽フェスもありましたね(58~77年)。内容はウエスタンでもなんでもないんだけど(笑)。最初のころはロカビリーがブームになり、その後、グループサウンズが台頭して。その時代時代によってはやりの音楽は変わりましたが、そこからデビューする人たちも多かったですね。アメリカのロックバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドもコンサートを開いたり。ポール・アンカも出ていましたね。
――スターがスターであった時代ですね。ステージ衣装が世の中に大きな影響を与えていたと。
重松:音楽はファッション史、服飾文化史には乗らないけれど、ファッションをつくった音楽はたくさんありましたから。この本では少しだけ触れていますが、欠けてしまったなと反省しています。音楽、というよりも、ミュージシャンがファッションをリードした、まさにインフルエンサーでしたね。
石川:とくにイギリスのミュージシャンは多いですね。エルトン・ジョンから始まって、ジミ・ヘンドリックス、ミック・ジャガー、デヴィッド・ボウイなど。彼らの服を作っていたのが、デザイナーのトミー・ロバーツ(Tommy Roberts)でした。僕は当時「平凡パンチ」で取材したことがあります。ロンドンに着いた日に直行で彼の「ミスター・フリーダム」という店に行った。そしたら偶然トミーがいて、その場で交渉して写真を撮らせてもらうことができた。撮影は長浜治さん。それがp.88の写真です。自分でいうものなんですが、これは貴重ですよ。
重松:そうそう、「平凡パンチ」で見たのを覚えています。この人は天才的なテーラーで、ミュージシャンの服ばっかり作っていたんですよね。サヴィルローの歴史の中でもすごく有名な人です。日本ではあまり報道されませんでしたが、後輩がたくさんテーラーにいましたね。
(vol.5に続く)
「日本現代服飾文化史 ジャパンファッションクロニクル インサイトガイド 1945~2021」
【Contents】
1. 1945-1950年 貧しい時代でもお洒落がしたかった
2. 1950-1959年 ファッションが動き出した
3. 1960-1969年 ファッションに自由がやって来た
4. 1970-1979年 経済成長が支えたファッション
5. 1980-1989年 おしゃれのエネルギーが頂点に!
6. 1990-2000年 流行はストリートから生まれてくる
7. 2000-2009年 誰もがセレブ気分になれた時代
8. 2010-2021年 ファッションの多様化は続く