人々の心に火を灯す機会を提供することを目的に、クリエイティブディレクターにGReeeeNのHIDEを迎えた一般財団法人渡辺記念育成財団は、EverWonderプロジェクトを発足した。構想中のプロジェクトは、同財団が次世代の芸能プロデューサーを支援する「みらい塾」の奨励生が企画進行している。今回は、第5期奨励生の下西竜二(OTAGROUP代表)が中心となり、学生時代の夢が現在につながっていると考える経営者たちと共に「EverWonderを実現する方法」についてディスカッションする。
下西竜二OTAGROUP代表(以下、下西):私はアイドルやVTuber、最近だとメタバースなど、さまざまなエンタメをプロデュースしていますが、そのきっかけは高校生のとき、アイドルオタクに目覚めたことです。同じように、学生時代に熱中していたことが今の仕事に生きている方たちとお話できればと思います。皆さん、学生時代に熱中していたことは?
長坂剛エーテンラボCEO(以下、長坂):私は中学2年生のときにテレビで「エヴァンゲリオン」を観たのがきっかけで、SF系のアニメや漫画にのめり込みました。この時、自分のオタク心が開花したように思います。高校に進学してからは、学校をサボってはゲームセンターに入り浸り、アーケードゲームに夢中でした。「鉄拳」や「電脳戦機バーチャロン」をやり込んでいて、全国大会にも出場しました。
下西:以前、起業家向けイベントの帰りの電車で一緒になった際、長坂さんが事業の話そっちのけでアニメの話をされていて、「この人は本物のオタクだな」と思いました(笑)。噂によると、これまでに300万円ほどをアーケードゲームに使われたとのことですが、本当ですか?
長坂:そうなんです。事業資金として貯めていればよかったと思います(笑)。ただ、300万円使うほどのめり込んだおかげで、「作り手になりたい」という想いが芽生えました。高校卒業後は、ゲームクリエイターかアニメーターになるために当時新設された東京工科大学のメディア学部に進学し、映像制作やCG制作を学びました。映画の自主制作や映像制作のアルバイト、趣味のアーケードゲームに大半の時間を割いた大学生活でした。ちなみに、当時は「三国志大戦」というアーケードゲームで全国ランカーになりました(笑)。
水野和寛Minto社長(以下、水野):私にも似たような経験があります。高校進学で愛知から上京すると、古本屋やCDショップをめぐるようになりました。当時流行っていたテクノから音楽にハマり、ひたすら遡って昔の音楽を聞きました。そんな高校生活を経て、大学に入ると「自分も音楽を作りたい」と思うようになり、コンピューターで音楽を作るようになりました。
下西:自分は勉強だけが取り柄で、やりたいことが見つからないまま偏差値の高い高校に進学。同級生の頭の良さを目の当たりにして、勉強でも自信を失いました。そんなときに出会ったのがAKB48でした。友達に誘われて初めて握手会に行き、アイドルと握手をしたときに衝撃を受けて、帰り道は電車のつり革をつかめませんでした。広島からほぼ毎月握手会に参加するほど夢中になり、母親はデートと勘違いしていましたが、女の子と手を繋ぐのである意味デートだろうと思っていました(笑)。
大久保 勝仁・銭湯「電気湯」4代目主人(以下、大久保):大学生のとき、私はボランティアに熱中していました。住居がなく最低限の暮らしすらままならない人たちが住み着くスラム街の土地を買い取って、資産運用などを行いながら持続的に支援するというものです。また、PPバンドプロジェクトにも注力しました。段ボールを束ねるときに使うプラスチック製のPPバンドをメッシュにして住居を支える骨組みに使うと、スラムの人々が自ら建てた簡易的な家の耐震性が上がります。このような支援を行うのがPPバンドプロジェクトです。
下西:学生時代の夢と、それが叶ったかどうか教えてください。
大久保:私の夢は最小不幸社会を作りたいというものです。企業は利益を追求して多くの人に最大の幸せをもたらして社会を豊かにする役割を担っている一方、政府や行政は不幸な人を救い、最低限の幸せを保障する役割があります。後者が目指すものが、最小不幸社会の実現です。そのためには制度や法律を変えないといけないので、私は国連への参画を保障するような部署に入りました。当然、まだまだ救わなければならない人たちが存在するので、最小不幸社会は実現できていませんが。
下西:どのようなきっかけで、そんな想いを持ったんですか?
大久保:自分にはビジネスセンスが全くなく、企業では働けないと思っています。そんな自分が社会で暮らし続けるためには、社会の役に立たなければ。そんな危機感から公的な働きを意識し始めました。現在は国連をやめ、家業の銭湯を継いで最小不幸社会の実現を目指しています。銭湯ブームで色々注目を集めていますが、単に銭湯をファッションやコミュニティーとして消費されるものにとどめたくはなく、社会に本当に必要不可欠な存在として残していきたい。例えば、誰もがお風呂に入れることや、共同空間で人々と生活の一部をともにできることだと思っていますが、引き続き論文などを読みながら銭湯のあるべき姿を追求したいと思っています。
夢は「ある意味で叶った」
昔の志は「無駄ではなかった」
長坂:私は、大学卒業後は映画監督かゲームクリエイターになるつもりでした。でも高校生のときに持っていた「“メイドロボ”を作りたい」という夢を忘れられず、新卒でソニーに入社しました。ロボティクスや先端テクノロジーだけでなく、映画やゲームにも関われると思ったからです。メイドロボという夢は叶っていませんが、先端テクノロジーに関わることができたので、夢に近づいたと思います。一方、ゲーム部門で新規事業も担当できたので、ある意味夢が叶ったともいえるかもしれません。
下西:現在はソニーを退社されて起業されています。
長坂:ソニーに勤めていた時も、大好きなゲームに関わる仕事で非常に充実していました。しかし、自分がゲームオタクだからこそゲームに対してある違和感を覚えるようになり、起業を考えました。それは、楽しいときはプレイしている間だけで、ゲームをクリアして終わる瞬間は非常に虚しいことです。ゲームはユーザーの人生自体を楽しませているわけではないというモヤモヤが溜まり、その人たちの幸せにはどうすべきかを論文などを漁りながら考えました。その結果、人は自ら積極的に行動しているときに幸せを感じるので、ゲーミフィケーションを現実世界に実装すれば、人はゲームのように自分の人生を楽しめるのではないかという仮説を持ち、「みんチャレ」という行動変容と習慣化のアプリで起業をしました。
下西:ご自身が大好きなゲームを突き詰めた先に、人生自体を豊かにするゲームを作るという本当にやりたいことが見つかったのですね。水野さんはどうですか?
水野:大学に入ってから3〜4年ほどダンスミュージックやテクノなどの音楽を作っていました。ところが、自分にはセンスがない。手の届かない天才がいるんです。そこでこの先どうすればいいか迷い、留年して、いよいよ追い込まれたとき当時読んでいた音楽機材の雑誌の編集部に「なんでもするから働かせてくれ」とお願いして、裏方の世界で生きていくことを決意しました。今はクリエイターを支援したりプロデューサーをしたりしながらコンテンツ制作に携わっていますが、クリエイターの人には頭が上がりません。
下西:音楽で勝負する夢は叶わなかったわけですが、そのような過去を経て今の仕事をやられている心境は?
水野:もちろん音楽で生きていけたらそれに越したことはなかったでしょうが、一度はクリエイターの世界を志したからこそ、クリエイターの気持ちを理解できたりクリエイティブ思考でサービスを設計できたりするようなところがあります。そういう意味で無駄ではなかったと思います。また、当社で公開したメッセージアプリ用のスタンプは世界中で約50億ダウンロードされました。コンテンツを世界中に届けるという意味では、夢見ていたことに近いと思います。学生の時の夢や熱中していたことが今の仕事につながっているのは、後から振り返ってみて初めて分かったことです。将来を合理的に設計することも大事かもしれませんが、やはり自分の根底にある想いと、自分の場合はクリエイター的な思考に立ち返ることが重要だと思います。
下西:学生時代に熱中していたことが現在につながっているんですね。学生時代の夢は叶わずとも、そこで感じたことが今の仕事の哲学になっていることは共通しています。長い人生には一見将来のキャリアにつながらない回り道こそ必要なのかもしれません。