未来的な視点と常識にとらわれない素材使いでファッション界に大きな足跡を残した奇才デザイナーのパコ・ラバンヌ(Paco Rabanne)が2月3日、フランス・ブルターニュ地方のポルサルで死去した。88歳だった。
ラバンヌは1934年2月18日、スペイン・バスク地方のパサイア生まれ。母親は「バレンシアガ(BALENCIAGA)」のお針子のトップで、父親はスペイン共和国軍に所属していた。5歳の頃、父が内戦で銃殺されたことから、家族でフランスに亡命。その後、パリの国立美術学校で建築を学んだ。66年にプラスチックやメタルを用いたオートクチュールのデビューコレクションを発表。「現代的素材を使った、着ることができない12着のドレス」と題されたアイテムは、フランスのファッションメディアから大きな反感を買った。しかし、その1カ月後にはニューヨークでも発表し、アメリカのメディアの好評を得て、デザイナーとしての未来を切り開いた。
また、68年にはスペイン・バルセロナに拠点を置くラグジュアリーファッション・フレグランス企業のプーチ(PUIG)とフレグランスの契約を結び、翌年“カランドル(CALANDRE)”を発売。その後も、“パコ ラバンヌ プール オム(PACO RABANNE POYR HOMME)”や“メタル(METAL)”など、数々のヒット商品を手掛けてきた。
ファッションでは、衣服とその構造への疑問を絶やすことなく、革新的なクリエイションに取り組んだ。60年代から70年代にかけては、ピエール・カルダン(Pierre Cardin)やアンドレ・クレージュ(Andre Courreges)と共にスペースエイジ・ファッションをけん引。メタルディスクなどのパーツをつなぎ合わせるアッサンブラージュやチェーンメイルなど斬新な技法や素材使いが彼の代名詞となったが、80年代には勢いを失い、99年7月のクチュールショーを最後に引退。ファッションの表舞台から姿を消した。
その後、2011年に「パコ ラバンヌ」を擁するプーチが休眠状態となっていた同ブランドのファッション事業を再始動。インド人デザイナーのマニッシュ・アローラ(Manish Arora)を起用した。アローラはわずか2シーズンで退任したが、13年からはニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquiere)時代の「バレンシアガ」で経験を積んだフランス人デザイナーのジュリアン・ドッセーナ(Julien Dossena)がクリエイティブ・ディレクターを務めている。