きょう3月1日付で松屋の新社長に古屋毅彦氏(49)が就任した。1869年に鶴屋呉服店を起こした初代・古屋徳兵衛から数えて創業家の5代目、松屋の社長としては9代目となる。婦人一部長、銀座本店長、営業本部長、経営企画室長などの中枢で実績を重ね、社長就任は既定路線と見られてきた古屋氏だが、「自分を百貨店マンだと思ったことはあまりない」と話す。いったいどんな道を歩んできたリーダーなのか。
WWD:幼い頃から百貨店は身近だったんですか。
古屋毅彦氏(以下、古屋):銀座の松屋は遊び場でした。母に連れられて週に2、3回は来ていたと思います。小学校の低学年くらいだったかな。買い物の邪魔なので、だいたいオモチャ売り場か、遊具のある屋上に放置される。オモチャ売り場にはガンプラ(ガンダムのプラモデル)の部屋があって、母が買い物している間、ずっとガンプラの箱を見たり、(スタッフに)箱を開けてもらって説明書を読んでいたりしました。プラモデルをたくさん買ってもらった記憶はないけれど、ザクとか、グフとか、ものすごく詳しい少年でした。
WWD:古屋家と松屋の関係を知ったのはいつですか。
古屋:小学校3年生くらいの頃、仲の良かった図工の先生に「お父さんかお母さんと話したい」と言われたことがあります。父に伝えたら、私の知らないところで話が進んで、松屋の小さなスペースで小学生の作品展が始まりました。現在も30回以上開催を重ねている児童作品展「ほら、できたよ」です。そのぐらいから同級生からも「松屋の子」として、意識され始めたと思います。学習院だったので榮太棲飴総本舗や虎屋の創業家の子供もいました。僕の家は百貨店の商売をしているんだと子供心に理解し始めました。
WWD:遊び場の百貨店を見る目も変わってきた。
古屋:僕は松屋にしか連れて行ってもらえないので、世の中の百貨店は松屋だけだと思っていました。家族も周りも「松屋は日本で一番いい店」だと子供の僕に話すので、信じて疑わなかった(笑)。しかし両親から「将来お前は松屋に入るんだ」と言われたことは一度もありません。そうはいっても周囲からは「いずれ後継者になるだろう」という暗黙のプレッシャーは幼い頃から感じていました。
WWD:思春期の頃も?
古屋:いま振り返ると、将来どんな仕事に就きたいとか、考えないようにしていたかもしれません。だから高校生や大学生の頃には、将来に対してやる気のない青年になっていた。就職活動を前にいきなり松屋ではなく、まず銀行で経験を積めという流れになって、東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)に入ります。
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