2020年代のファッションを象徴するトレンドに1990年代リバイバルや“Y2K”がある。これらを経て、2020年代のトレンドはこの先どう変化していくのだろうか。1990年代に一斉を風靡したデザイナーたちや、カリスマ的人気を誇ったショップの仕掛け人、大ヒットした雑誌の編集長が当時を振り返りながら、この先のファッション界の変化を予想する。(この記事は「WWDJAPAN」2023年月4月24日&5月1日合併号からの抜粋です)
1993年、東京・渋谷の並木橋交差点に7坪のショップが誕生した。コンセプチュアルな内装にヨーロッパで買い付けたメンズ服とオリジナルウエアを並べた同店には、全国の高感度な若者がこぞって足を運んでいた。店の名前は「パイドパイパー」。営んでいたのは、亀石剣一郎、将也、太夏匡の兄弟だ。端正なルックスと個性的なファッションから、“亀石三兄弟”として雑誌にも登場し、今でいうインフルエンサーのように、カリスマ的人気を博していた。コンセプトショップの先駆けと言える彼らは、どんな経緯で店を始め、今のファッションシーンをどう見るのか。
(左から)亀石剣一郎、将也、太夏匡
PROFILE:(かめいし・けんいちろう)1967年、東京生まれ。大学時代に学生企業家としてイベント事業などを手掛ける。93年に弟たちと共に東京・渋谷の並木橋に「パイドパイパー」をオープンし、95年には原宿に「アー・ニュー・ショップ」を、97年には大阪に「シナジー」を構える。2001年にショップ事業をやめ、ウィメンズブランド「オキラク」を始動。19年に同ブランドを退き、現在は不動産事業などを行う/(かめいし・まさや)1969年、東京生まれ。89年からスタイリスト喜多尾祥之のアシスタントを務める。「パイドパイパー」ではプロデュースを担当し、現在は「オキラク」に携わる。19年にはデザイン事務所のエムデザインを始動/(かめいし・たかまさ)1971年、東京生まれ。「パイドパイパー」では店舗責任者を担う。その後は原案や脚本、演者として複数の映画作品に携わるほか、「リバースプロジェクト」「パイドパイパープロジェクト」を設立。2020年にはメイキットコープを立ち上げ、四国のブランディングなども行う PHOTO:KO TSUCHIYA
WWD:「パイドパイパー」オープンの経緯は?
亀石将也(以下、将也):僕は1989年からマガジンハウスでスタイリスト喜多尾祥之さんのアシスタントを務めていた。当時好きだったのはイギリスのファッション。ケイト・モス、デヴィッド・シムズ、マリオ・ソレンティーといった名だたるクリエイターが、「ザ・フェイス」や「i-D」でスタイリングページを作っていた。
亀石剣一郎(以下、剣一郎):僕も同じタイミングで、イギリスを中心とするファッションに強い憧れを持っていた。しかし、日本ではそれを扱う店がなかった。だったら自分達でやろうと、当時大学生だった三男(太夏匡)にも声をかけて「パイドパイパー」をオープンした。
WWD:それぞれの役割分担は?
亀石太夏匡(以下、太夏匡):長男(剣一郎)が経営で、次男(将也)がプロデュース、僕が店長だ。服のセレクトはもちろん、内装から音楽まで、自分達がいいと思ったものを貫いた。
剣一郎:薬局にもらったショーケースをそのまま使ったり、鏡の真横に有刺鉄線をめぐらせたりして、僕らが憧れたイギリスの“ネオパンク”を表現した。それまでの洋服屋といえば服を並べているだけで、かなり挑戦的な店だった。
WWD:店舗運営はどう学んだ?
将也:全くの素人だった。何も分からないから、最初は利益度外視でヨーロッパを回り、自分たちが面白いと思ったものを買い漁った。卸だけでなく、メゾンの店頭で買ったコレクションピースから、マンションの一室で服を作る気鋭デザイナーズ、古着や蚤の市まで、とにかく好きなものを探して並べた。
剣一郎:例えばフランス発「シピー」のシルバースニーカー。当時「シピー」は日本法人があったが、このスニーカーを扱っていなかった。どうしても売りたくて「僕らにやらせてくれ」と日本法人に交渉へ行くと、「1000足ならいいよ」と言われた。置くスペースもないのに「やります」と二つ返事をした。売り切れるか不安がっていると、スタイリストが雑誌で使ってくれて、あれよあれよと売れていった。最後にはコピー商品まで出回った。そういうムーブメントが、たくさん起こった。
定期購読についてはこちらからご確認ください。
購⼊済みの⽅、有料会員(定期購読者)の⽅は、ログインしてください。