ファッション

山本寛斎が惚れ込んだ服飾芸術家、山崎良太 ハンドメードの圧倒的なエネルギーを宿す服

山崎良太/「アンチ」デザイナー兼アーティスト

1978年奈良県生まれ。京都芸術短期大学(現、京都造形芸術大学)のファションデザイン科を卒業。卒業後はビンテージショップやセレクトショップの販売員として働くかたわら、制作活動を続ける。「アンチ」というブランド名で2014年から作品を発表。服では史上初の第24回岡本太郎現代芸術賞に入選

“Anti=対抗”をブランド名に掲げて、ハンドメードでパッチワーク作品を制作する孤高の服飾芸術家、山崎良太。その制作には数年かかるものもあるという。なぜ、彼はそんなに長い年月を1着に費やすのか。その答えに山崎の求めるファッションがある。父親と岡本太郎、山本寛斎から授かった感動と、狂気と隣り合わせる山崎ならではの愛の表現はまもなく、圧倒的なエネルギーを宿す服として世界の琴線に触れようとしている。

対抗こそが自分の歩むべき道

WWD:ミシンを使わず全てハンドメードによって制作するのが「アンチ(ANTI)」の特徴だが、このスタイルに至ったきっかけは?

山崎良太(以下、山崎):ファッションに触れるようになってから、次第に周りとの温度差を感じるようになりました。特に一過性のファッションに対してファッションであるものの、僕が目指すものではないという思いが心の中にあって。そこから自分なりの表現方法を模索して、流行の真逆の存在として1つの服に時間とパワーをとことんかける方法に挑みたいと感じたことが今のスタイルの入り口にあります。

WWD:気づきの時期は具体的にいつ頃だったか

山崎:1つに、僕が京都芸術短期大学(現、京都造形芸術大学)のファションデザイン科に属していたときの違和感があります。当校に限らず授業では学生全員がデザインについて同じ内容を学びますが、同じ内容を教えているにもかかわらずなぜ成績の優劣を判断するのか納得がいかず、反抗心を剥き出しにしていたことを覚えています。そういった気持ちから、卒業制作ではわざとミシンを使わず、石膏で型を取ったゴム素材の服を作って提出しました。現在の表現方法とは異なりますが当時から「みんなと違う手法で作った服でも、これは服だ」という自分なりの主張があったと思います。

WWD:他にも、自身のスタイルに影響を与えているものは?

山崎:父です。中でも印象深い出来事は僕が小学1、2年生の頃、ローラースケートブームがありました。まわりの子たちが手に入れているのを見て自分も欲しくなり、父にお願いしたんです。すると父は「よし、作ったるわ!」と、下駄に車輪をつけたローラースケートを自作してくれました。僕は「ありがとう!さっそく滑ってくるわ!」と無邪気に家の外へと飛び出しましたが、それがまぁ見事に前へ進みませんでした(笑)。当然、「お父さん、これ全然進まへんわ!」となるわけですが、それを見た父は「滑られへんのもいいやん」と言ったんです。このときの父の言葉は、今の僕の服作りを支えるルーツになっています。「これでもいいんだ」「これがいいんだ」と思えるようになったので。それに、父は僕ら世代では珍しく主夫でした。下駄を素材にしようと考えた発想もまた、今思えばまわりに流されないパンクな存在だったのではないかと思います。

WWD:卒業後、ブランド設立までの職歴は?

山崎:卒業後は大阪、東京でビンテージショップやセレクトショップの店頭に立ったり、バイイングをしたりしていました。その間も、積極的に販売していませんでしたが、作品作りを継続してきて、当時作ったバッグは今でも自分で使っています。自らのブランドとして「アンチ」を発表したのは2014年です。同時期に他ブランドのアーカイブと自分の作品を販売するアトリエ兼ショップ、初流乃(HARUNO)を渋谷に構えました。

死ぬまで続く作品制作に完成はない

WWD:ブランド名「アンチ」が示す姿勢はデザイナー自身の気概や作風から存分に受け取ることもできるが、そもそもの由来はあるのか

山崎:芸術家・岡本太郎さんの著書「自分の中に毒を持て」(青春出版社)の一説に「アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない」とあります。アンチという言葉はそこからです。岡本太郎さんについては元々、僕の父がすごく好きだった方なんです。父は僕が19歳のときに事故で急死しました。遺品を整理した際に、岡本太郎さんに対する父の敬愛に触れ、同時に自分が幼い頃に岡本太郎さんの展覧会に連れて行ってもらったことなども思い出し、父のルーツを辿る意味で当時住んでいた京都から東京の岡本太郎記念館や川崎市の岡本太郎美術館に足を運びました。そこで僕自身、岡本太郎さんの作品に感銘を受けたんです。もし父が亡くなっていなければ岡本太郎さんに興味を抱かなかったかもしれないので、とても意味のあることだったように感じています。また、後々になって気づいたことですが、今の自分の作風で、特に原色の取り入れ方などは幼い頃に目にした岡本太郎さんの作品が影響しているのかもしれないと感じることがあります。

WWD:父親と岡本太郎の関係性と紐づくかのように、2020年に自身のブランド「アンチ」も服では史上初となる岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)に入選を果たしている。これは以前から望んできたものだったのか

山崎:いえ、そういうわけではありません。ブランドを立ち上げてから毎年展示会を開催してきたのですが、コロナ禍によって開催が難しくなりました。そのタイミングで何か別のことに挑戦しようと考えていたときに、ちょうどTARO賞の存在を知って応募しました。賞に出した作品は5年以上かけて制作してきたものです。

WWD:入選した作品は古着を土台に、既製品の生地やパーツが細かにあしらわれているが、完成に至るまでのプロセスはどこまで緻密に描いているのか

山崎:実際の制作過程では明確な着地イメージはなく、素材を直感的に選び、あるものを思うままに縫い合わせていきます。なので「これで完成」というゴール設定はありません。だからといって服である以上は「着る」ことから絶対に外れないようにしています。あと、やり直しもしません。なにか違和感が生じれば上からさらに重ねる手法を選んでいます。TARO賞のときの作品も今の状態が完成形ではなく、自分が死ぬまで続けていこうと思っています。

WWD:作品内で扱う素材には希少性が高いものがあると聞いたが、具体的にどういった素材が用いられているのか

山崎:パッチワークの生地には山梨県富士吉田市にある宮下織物のデッドストックを使っています。一般的には洋服の生地は「反(たん)」で仕入れる必要がありますが、宮下織物はパッチワーク主体の僕の作品に合わせて生地を仕入れさせていただいたり、残反なども「なにかに使えたら」と集めてくださったり、いつも協力してくださる本当にありがたい存在です。

宮下さんの家系は先祖代々宮司を務めていて、その歴史は1000年以上と言われているそうです。先祖代々から受け継いできた生地の質感や風合いは今見ても素晴らしく、一見オリエンタルなムードの柄や色使いですがどこか匿名性も感じます。しかし、高い技術を必要とする先染・高密度の織物を織れる職人は現在ごくわずかで、大量生産は出来ないため、生地は希少な存在。そういった魅力的なストーリー性に加えて、何より一番の理由は宮下さんと気が合うこと。現在は宮下織物の創業者の娘さんが宮下織物を経営されていて、彼女はさまざまな国に出向いてファッションの勉強をしたあとに家業を継がれたそうです。そんな彼女の話を聞くのが楽しすぎて、ときには一日中話している日もあります。

作り手と顧客が熱量を交わし合う密な関係性

WWD:作品の発表はどのような頻度で行っているのか

山崎:年に2回、展示会を開催して新作を発表しています。コレクション形式にあるような春夏、秋冬といったシーズンの区分けはあまり意識していません。ルックは毎回新たに撮り下ろしていて、信頼している写真家の弘法亮さんに撮影をお願いしています。

WWD:主な卸先、取扱店などはあるのか

山崎:卸先はなく、展示会やSNSを通じて個人購入してくださる顧客やフォロワーが国内外にいて、特に海外からの反応が強い傾向です。マドンナ(MADONNA)の専属メイクアップアーティストの方が22年のフェイバリットブランドに「アンチ」を挙げてくれたり、他にも僕の作品を着てコレクション会場に行ってくれたりする方などがいます。作品の価格ですが、今日僕が着ているコートだと90〜100万円ほどと、決して安い買い物ではありません。にもかかわらず、会ったことのないインスタグラムのアカウントから突然DMで「あなたの服を買いたい」と連絡を受けたときは正直とまどいましたが、これが現代におけるボーダーレスなコミュニケーション手段なのだと実体験できている点でもあります。

WWD:今後、取扱店舗の確保などについてはどう考えているか

山崎:僕を理解してくれる方との関係性を大切にすることを一番に考えていて、流通の手段を手広く用意することより1人ずつの熱量をしっかり感じながらつながりを増やしていきたいです。直近の国内展示会では1週間の期間中に5日間、計6回足を運んでくれた男性がいました。「自分ほど好きな人間がこの服を着るべきだと思うので買わせてください」と言ってくれて、作品を購入されていきました。そういった熱量の交わし合いが自分にとってなによりのモチベーションになっています。作品以外にもTシャツに装飾を施した比較的カジュアルなものを販売していて、作品にはなかなか手が出ない方でも手に取っていただける機会が増えています。

山本寛斎が後押しした「アンチ」の海外進出

WWD:山本寛斎との出会いのきっかけは?

山崎:4年ほど前、僕の作ったバッグをスタイリストである妻が持っており、それを見た山本寛斎さんが「それを作った人に会いたい」とおっしゃってくれて。連絡を受けてすぐに作品を持って山本寛斎事務所まで会いに行きました。

WWD:思い出に残っているエピソードは?

山崎:たくさんあります。初めてお会いしたときから、寛斎さんは想像の遥か上をいくパッションの持ち主で「君の作品は必ず世界に認められるから焦らなくても大丈夫」など、励みになるお言葉をよくいただきました。山本寛斎事務所の現・代表取締役の高谷健太さんから聞いた話ですが、寛斎さんは人や作品のことを褒めたりしない方だったそうです。でも、寛斎さんがNHK Eテレの番組「SWITCHインタビュー 達人達」にご出演されたときも僕のことを話題に挙げてくれて、会って間もない僕を英国のヴィクトリア&アルバート(VICTRIA&ALBERT)博物館につないでくれました。まるで友だちのように接してくれて本当にうれしかったです。寛斎さんが亡くなられた後、遺志を受け継いで山本寛斎事務所が開催した世界遺産ランウエイにも呼んでいただきました。

WWD:ヴィクトリア&アルバート博物館への作品披露について教えてほしい

山崎:寛斎さんと初めてお会いした日のことです。実は、僕はその翌日から展示会のためにロンドンへ渡英することになっていました。すると寛斎さんはその場で「V&Aに連絡しよう」と言い、山本寛斎事務所からV&Aの担当者にアポイントを取ってくれたんです。そして渡英後、指定された日時にV&Aへ出向き、作品を見てもらいました。僕の作品を見てくれたのはオリオール・カレンさんといって、当時開催されていたディオール(CHRISTIAN DIOR)展を仕切られていた、とても有名な方です。彼女は忙しい身でありながら時間いっぱい作品を丁寧に見てくれて、去り際には「あなたの作品を見た後に見る作品はどれもつまらなくなる」とまで言ってくれて。とにかく光栄でした。そのときのV&Aは高谷さんがアテンドしてくれたんですが、いまだに「あのときのオリオールさんの反応はすごかったよね」と2人で話すくらい深く印象に残っています。

WWD:博物館や美術館での展示には興味があった?

山崎:そうですね。積極的に取り組んでいきたいことですし、特にV&Aに関しては寛斎さんに紹介していただく前からいつか作品を披露したいと考えていた場所の1つでした。目標はV&Aで正式に自分の作品を展示することです。それはいつか必ず実現させたいです。まだ詳しくお話できないのですが、海外の展覧会のオファーも来ています。今後は国内外を問わず挑戦できる場所ならどこでもやりたいですね。

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