高島屋の前会長の鈴木弘治さんは、21年間にわたって社長、会長を務めた業界の重鎮だった。そごうの経営破綻、西武百貨店の私的整理などが相次ぎ、百貨店の先行きが不透明だった2003年に社長に就任。ライバルの三越と伊勢丹、大丸と松坂屋、そごうと西武百貨店、阪急百貨店と阪神百貨店がそれぞれ経営統合する中、単独路線を選んだ。ショッピングセンターを運営する子会社・東神開発と組み、百貨店を核にした「まちづくり戦略」の土台を築いた。
1945年6月、神奈川県鎌倉市で生まれる。慶大経済学部を卒業後、68年に高島屋に入社し、日本橋店の家具売り場からキャリアを歩む。労働組合専従となり、委員長を10年以上務めた。49歳でトップへの登竜門である取締役経営企画室長に抜擢された。
社長・会長時代は強固な「守り」と果敢な「攻め」で活路を開いた。
「守り」とは、財務体質の強化だ。社長就任早々、コスト削減など事業構造改革を断行した。借入金の圧縮を図るとともに、公募増資や転換社債の発行を積極的に行い、資金調達に手腕を発揮する。国内では赤字続きだった新宿店の土地・建物を取得し、黒字化に導く。海外でも長期にわたって赤字だったシンガポール高島屋を黒字化するだけでなく、地域一番店へと育て上げた。
「攻め」の成長戦略では、まちづくり戦略を確立した。1969年開業で日本初の郊外型ショッピングセンターである玉川高島屋S・Cの手法を発展させ、新宿、日本橋、流山おおたかの森、京都などの商業不動産の開発に取り組んだ。
足場のなかった名古屋進出も大きな功績だ。90年代後半、社内は慎重論が支配的だった。役員会で賛成派は取締役の鈴木さんを含めて2人だけ。バブル崩壊後の消費低迷期、社運をかけた新宿店(96年開業)が軌道に乗る前に、さらなる大型プロジェクトを進めることを躊躇する意見が多勢だった。鈴木さんは社内を粘り強く説得し、JR東海との合弁会社・ジェイアール東海高島屋の設立にこぎつけた。2000年開業のジェイアール名古屋タカシマヤ(JR名古屋高島屋)は、名古屋の不動の一番店だった松坂屋の売上高を14年に抜き去り、国内有数の店舗になった。
社長時代の08年、高島屋はエイチ・ツー・オー リテイリング(中核会社は阪急阪神百貨店)との経営統合に合意したが、企業文化の違いから10年に破談となる。「高島屋」ののれん一本で戦い抜く覚悟を決めた。苦労したシンガポールで勝ち得た「TAKASHIMAYA」のブランド価値を用いて、ベトナムやタイにも進出した。200年近くにわたる高島屋の歴史と文化を後世に伝えようと東京と大阪に高島屋史料館を整備した。24年2月期には営業利益で過去最高を33年ぶりに更新した。長年の鈴木改革と会長退任の花道になった。
(4月16日死去、享年78)