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避けようのない音楽——映画「悪は存在しない」について

濱口竜介監督による最新作「悪は存在しない」が4月26日から公開がスタートした。同作は世界から注目される監督となった濱口監督 の「ドライブ・マイ・カー」(2021)以降の長編映画最新作品 。第80回ヴェネチア国際映画祭・銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞するなど、国内外から注目度の高い作品だ。今回、批評家の伏見瞬に同作についてコラムを依頼した。
※記事内では映画のストーリーに言及する部分があります。映画観賞後に読んでいただくと、よりお楽みいただけると思います。

「悪は存在しない」を観た時、私はなにより心地良い映画だと思った。すさまじさや不気味さより、ささやかな悦びを感じた。快楽的、といっても差し支えない。そう感じたのはおそらく、本作が音楽的な快楽を生むように編集されているからだ。

もちろん、音楽家の石橋英子の依頼に端を発したことから考えても、本作が音楽と強い関係を結んでいるのは明らかだ。「ドライブ・マイ・カー」の音楽を務めた石橋が、「GIFT」と題する自身のライブ・パフォーマンスのための映像制作を濱口竜介に依頼したところから、本作の構想は始まっている。そのことが起因しているかどうかは定かではないが、「悪は存在しない」においては、撮影と編集の組み合わせ自体が音楽的に構成されている。ここでは本作の音楽的特性を記しつつ、それがどのように物語と肌を擦り寄せ、触れ合い、結びついていくのかを、確かめていく。

1.3幕構成のテンポ

「悪は存在しない」は、一度テンポを早め、そこからテンポを落とす映画となっている。どういうことか。
本作は3幕構成、3日分の出来事を描く劇映画である。物語はささやかなほどに単純だ。1幕目で、森と川のある山奥の集落「水挽町」で暮らす主人公の巧(大美賀均)と娘の花(西川玲)、彼らを取り巻く人々の生活の様子が描かれる。ここまでの上映時間はおよそ30分。2幕目で、水挽町にグランピング施設を建てようと計画する(コロナ禍の助成金を得るという目的のある)芸能事務所の社員2人、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が説明会を開き、水の汚染などを懸念する住民たちと緊張感の強い対話を繰り広げる。2幕目はおよそ25分。3幕では芸能事務所の2人が東京から水挽町に再訪し、あらゆることが起きる。3幕目がおよそ50分、エンドロールを含んで上映時間106分の映画である。プロットは複雑でも重厚でもない。グランピング施設をめぐる対立と交渉はまだまだ入り口の段階であるし、巧と花の関係も事細かくは語られない。その単純さは、グリム童話や遠野物語に記されたような、教訓のない説話を思わせる。

カット数は、約340カット。1幕目がおよそ90カット。2幕目がおよそ110カット。3幕目がおよそ140カット。1幕目が1分あたり約3カット。2幕目が1分あたり約4.4カット。3幕目が1分あたり約2.3カット。2幕目でカット割りの頻度が増し、3幕目で頻度が減る。特に2幕目はほとんどが説明会のシーンに集中しており、物語上の経過時間に対して上映時間は短く、カット数が多い。そして、3幕目は長回しを多く用いて、一つ一つのショットをじっくりと見せている。時間あたりのカット数を「テンポ」と考えれば、本作では2幕目でテンポが上がり、3幕目で1幕目より下がる。ゆったり→速い→よりゆったり、という時間感覚の変化を、上映時間とカット数のペースによって導入している(※1)。もちろん、音楽における「テンポ」とは違い、映画のカットの分け方は一定リズムではない。が、3日に分けられた3幕構成という一定の枠組みが設定されているならば、時間あたりのカット数は速度感覚の変化に寄与するだろう。

さらに、この映画ではオープニング・エンディング含めて石橋英子の音楽が8回流れるが、音楽は1幕目と3幕目に4回ずつ使われており、2幕目に音楽は流れない。2幕目は音楽のない会話劇として構成されており、3幕目での音楽の使用が、より印象深いものとなる(※2)。3幕構成が、メリハリのあるものとして感知される。こうした3幕構成におけるいくつかの操作は、テンポや音の伸ばし方・刻み方の変化によって時間感覚とリズムを形成する、音響芸術の構造を想起させる。

(※1)本稿に記した時間とカット数は、筆者が本作を2回映画館で観たときに数えたものであり、正確な数字ではない。正確に計測するための環境の用意がなかったので、やむを得ず記憶に頼ることにした。計測された数字でなければ分析として不十分ではあるが、一定の参考数値として活用できると考え、本稿に掲載することとした。
(※2)正確には、芸能事務所がグランピングをPRするための動画に、音楽が使用される。しかし、これは劇中に流れる動画の一部として使用されるもので、石橋英子が作曲した音楽とは別位相を成しているため、本稿ではカウントしない。

2.反復/変化の演出

本作には、いくつもの反復が確認される。
まず、1幕目と3幕目で行われる巧の動作が反復している。チェーンソーと斧で材木を裁断する、川の水をくむ、銃声を聞く、「あっ」と声を出して右手で頭を押さえる(花の迎えを忘れていたことを示す動作)、車で保育所まで花を迎えに行く、保育所から先に出た花を探しに行く。こうした動作の繰り返しにおいて、1幕目と3幕目の違いは、東京から来た2人が巧と行動を共にしていること、そして花がすぐに見つからず行方不明になることだ。この2点の差異が、劇の終わりに暴力をもたらすだろう。

保育所まで花を迎えに行くシーンの反復には、さらにいくつかの変化が確かめられる。1つに音楽の使い方。保育所に巧が到着するとき、1幕目では高い倍音が特徴のアンビエント的な音楽が流れている。しかし2幕目には、直前の水をくむシーンで、弦楽器の重なりが緊張感を生む本作のテーマ曲が流れ、保健所の場面では音楽が使われない。音楽が消えることによって緊迫感を孕み、花の行方不明と最後の結末を予感させる。加えて、1幕目では保育所にいる子供たちは「だるまさんが転んだ」で遊んでいるが、3幕目では回るグローブジャングルで遊んでいる。1回目に巧は保育所で一度車から降りるが、2回目は車から降りずにUターンしている。車から降りる/降りないの変化によって、切迫した感覚を演出している。

保育所から車を出した後は、車の後ろから風景を映すショットが繰り返される。どこか不気味な質感を漂わせる車の後方部からの撮影はしかし、2回だけで終わらない。巧と親しくしているうどん屋夫婦が花を探しに行く場面でも、車の後部から森を映している。最初の2回は巧の車からだが3回目は別の車からの撮影で、反復に変化が持ち込まれている。

本作を観た誰もが記憶しているのが、冒頭の長回しだろう。クローズ・ハイハットの連打とギターのアルペジオが鳴り、その後弦楽器の持続音が複数重なる楽曲に合わせて、大地から空を見上げる目線で木の枝が映される。キャメラは上から下へと機械的に移動していく。枝の様子が複層的に映される。この3分以上続く長回しの後にショットは変わり、ニット帽をかぶった花の横顔が映される。ロングショットとなったその次のカットで、彼女は画面の奥へと歩いていく。

3カットで構成された一連のシークエンスは、別の場面で反復される。2幕目の冒頭近く。グランピング設計に関する説明会の最中、花は森へと1人入る。雪の中に鹿の足跡が残る地面を、キャメラは画面の下から上へと映していく。次のカットで、花は画面の手前へと走っていく。このシークエンスでは①上から地面を眺める②画面が下から上へと流れる③その後のカットで花が画面の奥から手前へ進む、という動きが確認できる。これは冒頭のシークエンスの①下から空を眺める②画面が上から下へ流れる③その後のカットで花が画面の奥へ進んでいく、という動きを反転させたものだ。1幕目と2幕目の差異が、反復と反転の導入によって強調されている。画面手前に向かって走る花の動きは、2幕目の速いテンポと呼応している。

そして、3幕目の最後、つまり映画全体の最後に改めて冒頭のシーンが反復される。冒頭と同じ、大地から空を見上げたものであるが、今度は朝から夜に場面が変わっており、満月の光が画面の左上に見える。冒頭のキャメラの動きは機械的な直線を描いていたが、最後のキャメラは時々斜めに動き、円を描いているようにも思える。音楽に巧の息継ぎが混ざっており、冒頭の均等性に対して不均等性を強調しているように感受される。3回の反復において、別の要素の変化が用意されている。

以上のような複数の反復と変化が、組み合わさる。この特徴も、本作が音楽の構造を想起させる所以である。世に存在する音楽のほとんどは、反復と変化の組み合わせによって成り立つものだからだ。特に「悪は存在しない」では、3幕目が変化を伴いつつ1幕目を繰り返している。第1部があり(=A)、第2部で気配が変わり(=B)、第3部は第1部の反復であると同時に変化も含まれる(=A’)。こうした「A→B→A’」の構造は、西洋クラシックにおける「3部形式」と同様である(※3)。

もちろん、音楽的な構造は本作以外の映画でも確認できるだろう。テンポの変化や、反復のない映画自体が存在しないだろう。ただ本作に関しては、「3部形式」に律儀に対応しており、音楽的構造が観る者の感性に自ずと浸透する作りになっている。そういう意味で、「悪は存在しない」という映画は実に明快な映画だ。単純な悦びが、迸(ほとばし)っている。

(※3)『悪は存在しない』の構造に対応する具体的な楽曲として、ブラームス「交響曲第三番」の第三楽章が挙げられる。この楽章では、第1部分で提示した主題を第3部分で別の楽器が変奏しており、間に細かく跳ねるフレーズを持つ第2部分が挟まれる。つまり、典型的な「A→B→A’」構造となっている。第1部分、第2部分、第3部分の演奏時間の比率も、「悪は存在しない」の3幕構成の時間比率に近い。もう少し詳しく書くと、第1部分がおよそ1分50秒、第2部分がおよそ1分40秒、第3部分がおよそ2分30秒で、比率が11:10:15。「悪は存在しない」の3幕のおよその比率は6:5:10である。

3.水蒸気と鹿

3幕目においては、1分あたりおおよそ2.3カットの相対的にゆったり感じさせるテンポ感覚と、不均衡性や切迫感を感じさせる変化が同居している。遅い速度感と切迫した変化は鋭い対立を示しており、強い緊張感覚を観る者に伝える。では、そのような緊張感覚の中で、どのような事象が画面に映り、どのような物語が語られていくのか。(ここから、物語の結末部についても詳しく記していく)

芸能事務所の2人が東京から水挽町に再訪する3幕目で何度も映されるものは、下から上へ立ち昇る水蒸気にほかならない。そもそも、冒頭近くの8カット目で巧が煙草を吸うところから、水蒸気は画面に映っていた(喫煙の動作も本作で繰り返される)。しかし、3幕目に入り、水蒸気はより執拗に、より全面的に画面に映される。陽射しとビニールハウスの枠組みの影を受けた、堆積された牛の糞から立ち上がる真昼の湯気。うどんをゆでる際に昇る湯気、巧の部屋のやかんから湧き上がる湯気。半透明の湯気の上昇が、反復する。さらに、芸能事務所所属の女性・黛が巧の家のバルコニーへと出て行く長いワンショットでは、平屋の家の煙突から出た煙は右から左へと時間をかけて流れ、白のタートルネックニットを着て鬱蒼と繁る森を眺める黛を掻き消すかのように、画面の半分ほどを包み込む。花が行方不明になったことを告げる町内アナウンスが響くなか、木漏れ日を受けて広がる水蒸気は、なにか途方もない印象を与える。黛を演じる渋谷采郁は以降、2度と画面には映らないだろう。

そして最後に、巧と花が森の奥へと進んでいくロングショット。灰色の空に霧が広がるその間、花を両手に抱えた巧が霧の深みへ消えていき、巧に首を絞められて先ほどまで倒れていた芸能事務所の男・高橋が画面に現れて、ふらふらと歩いて、やがてまた倒れて画面から消える。高橋演じる小坂竜士の着用したオレンジ色のダウンジャケットが画面から退場するまでの時間の中で、淡青色に滲んだ霧は画面全体に及ぶだろう。3幕目のゆったりしたカット割りの中で長々と映されるのは、水蒸気の運動なのだ。水蒸気は繰り返し画面に映り、少しずつ画面全体を侵食していく。

物語の上でも、水蒸気の広がりと同調するように、次第に強調されていくものがある。鹿だ。巧から鹿の話を聞いた花は、1幕目の最後に鹿に出会う夢を見ていた。巧は、グランピングの建設予定地が鹿の通り道であることを終始気にしている。3幕目の車の中、黛は巧に対して柔らかい口調で反論する。鹿が人間を襲わないなら、グランピング場に鹿が来てもかまわないのではないか。鹿がそもそも人間の存在を怖がって近づかないなら、グランピング場の建設にとって鹿は障害にならないのではないか。合理的に反論されると、巧は黙り込んで煙草を吸いだす。その時、運転する巧の顔に影が乗り、薄暗い表情へと変わる。巧にとって、鹿は合理的な理由抜きに守るべき、絶対的な存在なのだ。水挽町の住人で鹿のことを気にしているのは、巧ただ1人である。巧は、芸能事務所の立場にも水挽町の住人の立場にも立っていない。鹿の立場に立っている。巧は、鹿だ。

車内で、人間を襲うのは手負いの鹿とその親だけだと巧は告げていた。劇の最後、行方不明だった花の前に、2匹の鹿が立っている。1匹は銃弾を受けている。手負いの鹿とその親だ! 帽子を外した花は、鹿の前で気絶する(※4)。左の鼻の穴を血の赤に染めて倒れる花。鼻の穴の紅い円形は、被弾した鹿の丸く紅い傷と、色と形を共有している(※5)。花は鹿に襲われた。と同時に、紅い丸型の傷を受けた存在として、鹿と花は同一化している。そして、鹿は、巧だ。つまり、花は巧に襲われながら、巧と同一化する。

鹿と花と巧が1つになり、致命的に傷つく。そのような決定的な場面に、他者の介在は決して許されない。巧の行動を模倣し、巧についてきた高橋は、だから巧に首を絞められる。鹿と花と巧が1つになる場面が緊張感覚の絶頂を成しており、そこでは、淡青色の霧が広がるばかりだ。さらに、石橋英子が作曲したテーマ曲、冒頭から数えて3度流れていたあの弦楽曲が改めて画面に重なる。弓を引いて広がる持続音の重なりはメジャーやマイナーの明確な調性に抜けきらず、不穏さと荘厳さの間をひたすら行き来する。感情表現は存在せず、後戻りできないという致命的な感触だけが残る。鹿と水蒸気と弦楽曲の一体化によって、本作は避けようのない終わりを迎えることになる。

(※4)花の帽子を取る動作は、説明会の途中で巧が見せた動作の反復であると同時に、部屋で絵を描く巧の帽子を花が取る動作の反復である。巧と花は、帽子を外す動作でも結ばれている。
(※5)丸形の連鎖は、最後のショットの満月にも反映されている。1幕目の車のライト、3幕目の懐中電灯のライトは、共に放射状に尖った光として映っていた。しかし、最後の満月の光は円形に映されている。同様に、血の紅色は、植物の棘に付着した液体として、棘によってつけられた手の甲の線状の傷として、尖った形としてそれまで映されていた。光と血を観ていくと、尖形から円形への変化が確認できる。

終わりに。

教訓のない説話を思わせる「悪は存在しない」という映画は、一体化へ向かう動きをやめない。テーマ曲の弦楽は冒頭のシーンで流れており、この曲の描き出す後戻りのできなさは、冒頭から予告されていた。巧と花は最初から鹿を通した同一化の欲望を共有しており、グランピングの建設を巡るやりとりは、彼らが欲望を成就するための媒介となる。グランピング計画が巧を利用するのではなく、巧がグランピング計画を利用するのだ。かくして高橋という男は、巧と花と鹿のための贄(にえ)になる。

「悪は存在しない」は、3部形式の楽曲のようにテンポ感覚を変えながら、反復と変化を織り込みながら、最後に避けようのない終幕へと達する。画面上では水蒸気の広がりが、物語としては鹿を通した同一化の悲劇が、緊張の高まりに寄与する。

しかし、結部に強い緊張感覚がみなぎるとはいえ、本作はあくまでもささやかな映画としての表情をとどめている。物語としての単純さは、3幕構成の明快さは、映画全体の印象にも及んでいる。

世界は繰り返しの中に変化を導入し、後戻りできない場所へ私たちを連れていく。一体化へ向かう動きに、人間の倫理が介入する余地はない。欲望の装置は、成就するまで止まらない。変更の利く計画ではない。果たされるものは果たされる。遂げられるものは遂げられる。楽譜に記された曲は最後まで演奏される。避けようのない残酷さは、決して特殊なものではない。残酷さは、ささやかなかたちで、至る所で発生している。「悪は存在しない」の特質は、致命的な掟を、ささやかな現象として響かせたところに存ずる。あらかじめ決められた恋人たちのたわいない遊戯のように、この映画は存在している。

■「悪は存在しない」
4月26日からBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国順次公開 
出演:大美賀均、西川玲
小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人
山村崇子、長尾卓磨。宮田佳典/田村泰二郎
監督・脚本:濱口竜介
音楽:石橋英子
製作:NEOPA/fictive
プロデューサー::高田聡
撮影:北川喜雄
録音・整音:松野泉
美術:布部雅人
編集:濱口竜介、山崎梓
企画:石橋英子、濱口竜介
エグゼクティブプロデューサー:原田将、徳山勝巳
配給:Incline
2023年/106分/日本/カラー/1.66:1/5.1ch
©︎2023 NEOPA/Fictive

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