カール・ラガーフェルドは11月19日、パリ政治学院で400人の学生を前に講演を行なった。「私は鉛筆を持って生まれた」と学生たちに義務ではなく自分が楽しんで取り組める仕事を選ぶようラガーフェルドは強調。彼はドイツ・ハンブルクの裕福な家庭に生まれたが、大学に進学する代わりにパリ・オートクチュールの世界に飛び込んだ。彼は1954年、イヴ・サンローランらとインターナショナル・ウールマーク賞を受賞。その直後に「ピエール バルマン(Pierre Balmain)」でインターンに就いた。
言うまでもなく彼は歴史に残るファッション・キャリアを築き上げた代表的デザイナーだ。彼は「シャネル(CHANEL)」のクチュリエを31年、「フェンディ(FENDI)」のファー及びプレタポルテのデザイナーを48年間務めつつ、自らのブランドのデザインを手掛けている。過去には、「クロエ(CHLOE)」など多くのブランドのデザインを手掛けた。また、フォトグラファー、本の出版、映画製作など多岐に渡って活動している。
講演の中から、ラガーフェルドのコメントを抜粋して紹介。
ーー1950年代のファッション
当時のクチュールは全くもってグラマラスなものではなかった。アトリエはひどい環境で給料も安く最悪だった。当時と比べると今のアトリエはまるでSF映画のセットのように美しいよ。
ーー1日の過ごし方
まず、新聞を読んで午前中にデザインをする。なぜなら、まず、朝一番に世の中のことを知っておきたいからね。ファッションはスケッチから始まって写真で完結するものだ。デザインにコンピュータは使わず、あくまでも手仕事。私は家で音楽を聴きながらスケッチをする。あっという間に時間が過ぎるよ。そしてランチを食べて、午後にはスケッチなどの仕事を小脇に抱えて、まるで学生のようにそれらを配達してまわるよ。
ーー愛書家として知られているが
私は愛書家だが、珍しい本を収集するわけではない。本は美しいオブジェになるが、知識が得られる中身のほうに関心がある。
ーージャン・パトゥでの5年間
『ピエール バルマン』で3年半働いた後、『ジャン・パトゥ』のヘッド・デザイナーを任された。年間2回、60体のコレクションを作り、今の時代では学べないことを学んだ。フランスでは50年代にビスチエをベースに洋服を作っており、世界で最も美しい素材が揃っていた。『ジャン・パトゥ』は20年代に3000人の従業員がいて重要なブランドの1つだった。
ーーインスピレーション源は
食欲は食べるから出るもの。仕事も同じで、仕事そのものからアイデアを得る。だからビーチで2ヵ月過ごしてインスピレーションを得ようとする人々を信じない。ファッションはフルタイムの仕事。真剣にファッションの仕事をしようと思ったら、パートじゃできない。
ーー変化することに関して
時代とともに変化するべきだ。ファッション業界で変化しなければ死んでいるのと同じ事。時代に応じて変わるべきだ。
ーー音楽
私が人生で後悔しているのは、ピアノを弾けないことだ。
ーー会社での仕事
私は100%私をサポートしてくれるスタッフと働いているし、私も100%彼らを信頼して仕事をする。私にはヒエラルキーは存在しない。最高経営責任者だろうが、自分の日常を交えながらホンネで講演したカール・ラガーフェルドお手伝いさんだろうが両方とも私には同様に重要。