「ケイタマルヤマ(KEITA MARUYAMA)」は1994年に誕生し、今年で30周年。丸山敬太デザイナーは動植物で飾ったテキスタイルや、和洋中の要素を融合したデザインで、“晴れの日に着る洋服”を作ってきた。しかし多幸感溢れる表現の陰では、幾度の困難も克服してきた。酸いも甘いも知りながら、それでもなお「楽しいことを生み出したい」とする彼の人生譚とは。
文化服装学院卒業後、僕は「ケンゾー(KENZO)」の面接を受けるためにパリにいた。そして挫折を味わっていた。「君には独自の才能がある。一度日本に帰って、どんな会社でもいいから一生懸命働いてみなさい。機会があれば、またその時に」。担当者から、実質の不合格を言い渡されたわけだ。落ち込んだものの、僕はその言葉を素直に受け止め、ビギグループで「アツキオオニシ」のアシスタントになった。
大西厚樹さんから多くを学ぶ中で、特に驚いたのは細部までこだわるショー演出だった。モノトーンの水玉の衣装をまとったモデルが登場する場面のために、アシスタントらで小物の全てを黒白に塗り分けたこともある。「こんな些細なことまでするんだ」と、物事をトータルでデザインする重要さを思い知った。
足掛け3年働く中で辞めるに至ったのは、生産管理担当者とのやりとりが発端だった。デザイン通りに仕上がらないサンプルに対して、相手は「生産効率を上げるためにはこれで量産すべき」と言う。話し合いの末に、僕は「自分のブランドじゃないから仕方ない」と諦めるようになっていた。それまでは、どんなことを言われてもモノづくりのために闘っていたのに。そんな自分が嫌になり、「アツキオオニシ」を退職した。25歳のころだった。
幸い、学生時代から続けていた衣装制作の仕事が生活の糧になった。フリーランスになった僕の名前を広めてくれたのは、ドリームズ・カム・トゥルーだ。元々彼らのファンだった僕は、ドリカムが来るというバーを偶然発見。マスターにブックを預けた。すると、それを見た吉田美和さんが「一度会いたい」と連絡をくれた。ちょうどドリカムは初の大規模ツアーの開幕前で、僕は衣装を手掛けることになった。それが契機だった。彼らの人気とともに、僕はてんてこ舞いの日々だった。
一方で、「このままでは自分のブランドを持つ夢から遠ざかるのでは」という不安も膨らんでいた。そんな僕を見かねたのか、以前からお世話になっていた「花椿」編集長の平山景子さんが声をかけてくれた。「丸山君の頭にはすてきなアイデアが溢れている。でも、どんなにいい考えだって、持ち続けているだけでは腐ってしまう。今が出し時だから、そろそろ何かやりなさい」。平山さんの言葉に僕は一気にスイッチが入った。ブランドを立ち上げるなら、まずはショーで披露したい─。単純かもしれないが、そう思った僕は、クリエイター仲間と夜な夜な制作を始めた。1994年、「ケイタマルヤマ」デビューショーの幕開けだった。(続く)