PROFILE: 榧野俊一/アシックス アシックススポーツミュージアム アーカイブ担当リーダー
アシックスのランニングシューズ“ゲルカヤノ(GEL-KAYANO)“は1993年の発売以来、30年以上にわたって世界中のランナーに愛されるロングセラー商品である。近年は過去のモデルをベースにしたファッションスニーカーが人気で、特に“ゲルカヤノ14”は爆発的ヒット商品になった。このカヤノの生みの親こそ、アシックスのシューズデザイナー榧野俊一(かやの・としかず)氏である。競技向けからファッションまで、その名を世界にとどろかせるカヤノの榧野氏とはどんな人物なのか。
WWD:もともとシューズデザイナーを目指していたのですか。
榧野俊一アシックススポーツミュージアム アーカイブ担当リーダー(以下、榧野):大学で工業デザインを専攻していました。自動車や電化製品のデザイナーになりたかったけど、大手メーカーはいずれも狭き門でした。中学・高校の美術教師にも興味があって、教育実習を経て合格をもらっていました。でもデザイナーの夢は捨て難く、進路に迷っていた。そんなとき運良くアシックスから内定が出たのです。僕の故郷はアシックス創業者・鬼塚喜八郎さんと同じ鳥取県。地元には昔からシューズ工場(現・山陰アシックス)もあって、鬼塚さんは地元の有名人でした。親孝行にもなるかなと思って入社を決めました。
WWD:それまでアシックスのシューズは履いていましたか。
榧野:柔道部だったので馴染みはありませんでした。それに工業デザイナー志望だからスポーツ用品の中でもギアの方に興味があった。新規事業部というのがあって自転車を作っていたため、そちらへの配属を希望しました。(人事部からは)アシックスの花形のシューズでなく、自転車を選ぶ変わり者と思われたことでしょう。それくらいシューズに関心がなかったのです。
WWD:ではシューズに関わるようになったきっかけは?
榧野:1987年当時、アシックスの新入社員研修は半年間。でも僕は2週間で研修を打ち切られ、ランニングシューズの底(アウトソール)の図面を描いて(工場に)発注してくれ、と命じられました。右も左も分からず、既存の商品をベースに見よう見まねで描きました。続いて「バスケットボールシューズをやってくれ」と言われて、手掛けたのが米国市場向けのバッシュ“ゲルエクストリーム(GEL-EXTREME)“。私の実質的なデビュー作です。
WWD:新入社員なのに、いきなり大抜擢ですね。
榧野:入社したばかりでバスケに必要とされる機能もよく分かりません。体育の授業のバスケも苦手で、いい思い出がなかった。上からは「過去のバッシュをベースにしながらデザインしろ」と言われて、いきなりコートに立たされたわけです。今では考えられない無茶ぶりですよ。でも工業デザインを学んできたおかげで、人の足で負荷がかかったり、曲がったりするのはこの辺りだろうなと想像はつきました。
後から振り返ると、スポーツシューズにおけるデザインの重要性が増してきた時代でした。従来の常識にとらわれない若手を登用しようという気運だったのでしょう。3社統合でアシックスが誕生してわずか10年(シューズのオニツカ、スポーツウエアのジィティオ、ニットウエアのジェレンクが1977年に対等合併)。総合スポーツメーカーとしては黎明期でした。せっかくの高性能をデザインとしてうまく表現できていないのが会社の課題だった。そんな時代にスポーツシューズの世界に飛び込んだのです。
WWD:バッシュでいえば、マイケル・ジョーダンが履いた「ナイキ」の“ジョーダン“シリーズが一世を風靡し、白ばかりだったバッシュがカラフルになっていった時期ですね。“ゲルエクストリーム“にはどう取り組みましたか。
榧野:とにかくカッコよさを追求しました。アシックスのバッシュは高品質だけど、地味過ぎてもったいないと感じていました。スポーツには必ず美しい瞬間があります。そこから着想を広げるのが僕のやり方です。バスケでいえば、迫力あるダンクシュートや堅実なサイドステップに美を感じ、イメージを膨らませました。
初めて米国に出張した際、飛行機から眺めたグランドキャニオンや摩天楼のビル群に感動しました。アメリカの景色から得た着想を靴底に取り入れました。機能的なことは先輩方に助言をもらいながら作り上げました。NBAの契約選手に履いてもらうため、チームカラーを取り入れることになりましたが、人気チームであるロサンゼルス・レイカーズのチームカラー(黄色と紫)すら知らなかった。本当に手探りだったけど、思い出深い一足です。
“ゲルカヤノ“は仮の名前だった
WWD:そして、まだ27歳だった93年に現在まで続くランキングシューズの基幹モデル“ゲルカヤノ“を発表するわけですね。
榧野:“ゲルカヤノ“も米国市場向けに企画したシューズです。時代背景から説明した方がいいでしょう。当時の米国はフィットネスブームによって、ランニングとフィットネスの境がなくなっていました。新作のターゲットは健康を目的に走る人たち。市場ではフィットネスランニングという言葉が浸透していました。今は走りに特化したパフォーマンスランニングという表現が一般的です。同じランニングでも時代によって意味合いは変わるのです。
初期の“ゲルカヤノ“には、今のランニングシューズにはあまり使われない固いパーツも使われています。だから現在から見たらかなり重たいシューズでした。ジムのトレーニングに兼用できるよう耐久性を追求したためです。
米国法人からは「デザインのイノベーションを起こしてくれ」とリクエストされました。行き詰まっていたら、ある日突然、クワガタのイメージが浮かんだのです。カッコいい角(つの)と硬い鎧を身にまとったクワガタ。強いだけでなく俊敏なところもランニングシューズにぴったり。われながらいいアイデアだと思って先輩に話したら「ふざけすぎだ」と一蹴されましたが、僕はめげません。デザインにこっそり盛り込みました。米国法人の担当者は面白がってくれて、米国市場ではこのデザインコンセプトを宣伝しました。遊び心も米国のランナーに伝わって上々の売れ行きでした。
WWD:「ナイキ」の“ジョーダン“や「アディダス」の“スタンスミス“などアスリートの名前がスポーツシューズに採用される例は多いけれど、社員デザイナーの名前がつく例は珍しいですね。
榧野:当社の場合は過去にいくつかありました。でも長続きせず、1、2年で終わってしまう。“ゲルカヤノ“のように30年以上続くことは確かに珍しいです。この名前は僕の意向ではありません。米国法人の担当者が開発中のコードネームとして言い始め、そのまま発売されてしまったのです。カヤノという言葉の響きがアメリカ人にとって異国情緒があって魅力的なので、「そのまま行くよ」となりました。初代は“ゲルカヤノトレーナー“、翌年の2代目モデルから“ゲルカヤノ“になりました。
WWD:自分の名前がついたシューズが発売されて、米国でヒットしたときの気分はどうでしたか。
榧野:入社5年目で将来に迷いもありました。米国市場で実績を重ねると、現地の大手スポーツ企業から良い待遇を持ちかけられることもあります。でもシューズに自分の名前が付けられ、十字架を背負わされたような気持ちになりました。“ゲルカヤノ“は僕1人で作ったわけでなく、多くの仲間と作り上げたシューズですから責任を感じます。エラいことしてくれたな、というのが偽らざる気持ちでした(笑)。引き抜きの話があっても「僕はサムライ魂があるので」と断ってきました。
「ガンダムチック」なデザインの評価が時代で変わった
WWD:以来、“ゲルカヤノ“は今年発売された“ゲルカヤノ31”まで30年以上、全世界で累計300万〜400万足を売るロングセラーになったわけですが、これほど息の長い商品になった理由はなんでしょう?
榧野:ずっとランナーに寄り添ってきたからだと思います。時代の変化と共にユーザーやポジションも変化しています。当初のフィットネスランニングから始まり、今はパフォーマンスランニングの定番モデルになりました。スポーツシューズは「機能性」「テクノロジー」「デザイン」の3要素の三角形で構成されます。この三角形の形は、時代ごとに変わる。今は「機能性」と「テクノロジー」が突出していて、「デザイン」の山は低い。結果として各社ともシンプルでミニマルなデザインになっています。シューズにもサステナブルが求められるようになり、パーツを減らしたデザインが主流になりました。僕が得意としたような遊び心が入り込む余地は少なくなりました。でも、それはお客さまや市場が求めていることなので間違いではありません。
WWD:榧野さんが直接手がけていた“ゲルカヤノ“の初代から“13”までは装飾的な要素が多いですね。
榧野:自分は情緒を盛り込みたいタイプのデザイナーです。先ほどのクワガタもそうですが、人間の心臓や肺などの内蔵をデザインモチーフにしたり、隠れキャラのようなデザインメッセージを密かに盛り込んだり。“ゲルカヤノ11"は日本の戦国時代の武士の甲冑、翌年の“ゲルカヤノ12”は西洋の騎士の鎧をデザインモチーフにしています。
オニツカ時代から選手ファーストで機能とテクノロジーを大事にしてきた歴史をリスペクトしつつ、そこに情緒を加味するのが僕の役目でした。今、アシックスの(1990〜2000、10年代のスポーツシューズをファッションスニーカーに刷新した)「スポーツスタイル」が売れていますが、そういった情緒が若い世代にとっては新鮮なのかもしれません。
WWD:確かに街中でアシックスのスニーカーを履く若者を多く見かけるようになりました。少し前までファッションスニーカーは「ナイキ」「アディダス」「ニューバランス」など欧米一辺倒で、「アシックス」は部活動のイメージが強いためか…
榧野:ダサいと言われてきました。辛かったなぁ。ファッションはつかみどころがない。会社からも小売店からも「ファッション性の高いものを作れ」と言われ続けてきましたが、具体的にファッション性の高いシューズの答えは誰も持っていません。僕が得意な情緒的なデザインがファッション性に結びついているのかは分かりません。でも醸し出されるデザインのバックストーリーを感じ取ってくれているような気がします。僕のシューズは「ガンダムチックなデザイン」「メカっぽい」と言われたりしましたが、時代が進んで評価されるのだから面白いですね。
“ゲルカヤノ14"の大ヒットはうれしいけど、悔しい
WWD:“ゲルカヤノ14”がファッションスニーカーとして世界中で大ヒットしています。
榧野:カッコいいよね。きょう僕が履いているのも“ゲルカヤノ14"。これは韓国の「アンダーマイカー」とコラボしたスニーカーです。でも残念ながら僕は2008年発売の“14”のオリジナルに携わっていません。僕は担当したのは初代から“13"までなんです。だから“14”が大ブレイクして悔しいですよ(笑)。
“14"のデザイナーは、僕の大学の後輩の山下秀則(現・アパレルエクィップメント統括部デザイン部部長)です。山下は“13”までのデザイン哲学を踏襲し、さらに昇華させてくれました。本当に素晴らしいし、世界中で売れるのも納得です。うれしい。けれど、悔しい。複雑な気持ちです。
WWD:正直ですね(笑)。しかし榧野さんがオリジナルをデザインしたシューズは「スポーツスタイル」の人気商品です。最初のバッシュ“ゲルエクストリーム“も復刻されて“EX89”、ランニングシューズの“GT2000"“ゲルニンバス“シリーズもストリートで愛されています。
榧野:僕は基礎を作っただけです。“ゲルカヤノ”とコラボするクリエイターはこの部屋(貴重なアーカイブ品が保管される神戸本社の資料室)に招き、アシックスのこれまでの歩みを紹介します。さまざまなアスリートの足元を支えてきた歴代のシューズはインスピレーションの宝庫。みんな一様に感動して帰ります。国内外のクリエイターによって僕らが作ってきたシューズに新しい魅力が加わる。デザイナー冥利に尽きます。
若い世代にシューズデザインを伝えたい
WWD:アスリートの名前を冠したスポーツシューズは、売り上げに応じてアスリートにインセンティブが入ることが多いようです。
榧野:僕の懐には1円も入りません。一会社員ですから。もし30年分の“ゲルカヤノ“のインセンティブが入ったら、すごいことになりますね(笑)。若いときに取得した特許や意匠登録があるので、毎年おこづかい程度の額は入ります。これも期限があるため年々減ります。
WWD:“ゲルカヤノ“がアシックスの社員デザイナーの名前だと知らない人も多いようですね。
榧野:ランニングが文化として浸透している海外では、僕の知名度はそれなりにあるようです。昨年は“ゲルカヤノ“デビュー30周年を記念して、米国と豪州の講演に呼ばれました。会社の歴史や“ゲルカヤノ“の開発秘話を話すと、みなさん、熱心に聞き入ってくれます。終わるとサイン攻めにあいました。
日本でもデザインを担当していた頃は、“ゲルカヤノ“の新作を出すたび店頭の販売応援に立ちました。懇意にしていただいていたスポーツミツハシ(京都の有力スポーツ専門店)が多かった。デザイナーとしてではなく、単なるメーカーからの販売応援スタッフとして、お客さんに応対します。「アシックスよりもナイキのデザインが好きなの」とか忌憚のない声を聞くことができます。プラスの声、マイナスの声も含めて、次の開発に生かすのです。
WWD:アシックスは過去10年で売上高が2倍近く成長し、海外売上高が8割以上というグローバル企業になりました。会社はどう変わりましたか。
榧野:だいぶ変わりました。もともとはコンサバな体育会系の社風でした。カルチャー好きな僕は異端だった。周りからは好き勝手やっているように見えたことでしょう。でも結果を残すために相当のエネルギーを費やしてきました。さいわい担当した商品で売り上げを伸ばしたから、自由が確保できた。シューズ作りはチームワークが大切だけど、デザインの出発点は個人のインスピレーションであるべきです。僕は表現できるのが本当に楽しかった。いま社内の後進育成も行っています。今の若いデザイナーは真面目で優秀ですよ。好きなことをとことん突き詰めてほしいな。
来年3月で定年退職の予定です。その先は決めていません。ただ、やりたいことはあります。芸大や美大でスポーツシューズのデザインを教えることです。ときどき講師として招かれることもありますが、可能性に満ちあふれた学生さんと話すのは本当に楽しい。自分の経験を伝えていけたら幸せです。