イトーヨーカドー津田沼店の閉店当日の様子を伝えた記事が多くのアクセスを集めました。経営不振で大量閉店を進めるヨーカドーですが、津田沼店は一番店(ヨーカドー内の売上高全国1位)だった時代も長いため、ひときわ注目が高かったようです。
津田沼は千葉県習志野市と船橋市にまたがったエリアです。戦後の高度成長期に人口が急増。1970年代後半にはヨーカドーのほか、西友、ダイエー、丸井、パルコ、高島屋が立て続けに出店し、激しい商戦は「津田沼戦争」と呼ばれました。ヨーカドーの撤退でこれらのプレイヤーは全て消えました。小売業の栄枯盛衰を感じずにはいられません。
津田沼は日本の近現代史を凝縮したような場所です。
戦前は軍都でした。広大な野原だった習志野原に陸軍の演習場が置かれ、日清・日露戦争から第2次大戦終了まで軍隊の町として発展します。現在もその一部が陸上自衛隊習志野駐屯地として残っています。ちなみに津田沼駅で30年以上前から朝のビラ配りする姿で知られる野田佳彦氏(元首相、現立憲民主党代表)は、父が習志野駐屯所所属の自衛官でした。
ヨーカドー津田沼店は新京成線・新津田沼駅の駅ビルで営業してきました。新京成線はもともと陸軍の鉄道連隊の演習線です。明治から大正、昭和にかけて鉄道は軍事作戦の重要な手段でした。戦地に鉄道を敷き、兵站の中心を担わせる。演習線とは鉄道を敷く工事技術や運転手の腕を磨くために設けられた線路です。戦後、京成電鉄に払い下げられました。鉄道連隊の広い敷地の跡に終戦から32年目にヨーカドー津田沼店が出店し、さらに時代を経てイオンモール津田沼が開業したわけです。
JR津田沼駅の南側にかつてあった旧ダイエー(現モリシア)や高島屋(同)の区画も鉄道連隊の敷地跡でした。隣の千葉工業大学も同様で、鉄道連隊時代の煉瓦造りの門が現在も大学の門として使われています。
明治・大正・昭和初期の「富国強兵」の時代に軍都として栄え、高度成長期以降の「大衆消費社会」に大型商業施設の激戦区になった津田沼。時代を強く反映しながら変貌した街は、次はどこに向かうのでしょうか。
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