ユナイテッドアローズ(UA)の創業者である重松理・会長(64)が6月24日付で退任し、名誉会長になった。ビームス設立を企画し初代店長や常務を務めた後、UAを1000億円企業に育てた「ミスター・セレクトショップ」だ。接客サービスにも並々ならぬ想い入れを持ち、「顧客満足追求の権化」とも言える。そんな重松会長に、経営の根幹に掲げた販売や顧客満足に対するこだわりや後身に託す夢などを聞いた。
ーーワールドと共同出資でUAを設立した経緯は?
ワールド関連の知人を通じて、畑崎廣敏・社長(当時)などを紹介してもらった。当時のワールドは菊地武夫さんと契約をしたり、面白いことを仕掛けるなど勢いも資金もあり、新しい生活文化を創るためにピッタリのパートナーだった。原宿・渋谷近辺に出店できるような物件も持っていて、後のUA原宿本店(現メンズ館)の場所で、人口雪を降らせるスキーリゾートみたいな店を手掛けるなど画期的企業だった。
ーー創業後は順調だった?
渋谷の1号店は売れた。オリジナルの住宅開発のプランも持っていたし、ライフスタイル全般を表現するため、家具やベッド&バス、リビング&ダイニングなど、ジャンルごとに品揃えし空間を含めて提案していた。洋服はシャツ、Tシャツ、ニット、スーツ、ジャケット、スーツなどアイテム別に欧米仏伊のトップだと思う商品を集めた。天井高は3m50 �p以上ないとダメ、路面店しかやらない、10店舗しかやらない、とこだわった。40坪で、90年7月20日にオープンしてから、いきなり8月に月間5000万円売れた。でも、カジュアルを持っていない弱みやバブル崩壊もあり失速。92年に出店した原宿本店も売れなくて。そろそろクビかという時に神風が吹いて売れ始めた。J-WAVEで宣伝したりもしたが、天候が味方してくれた。
ーーヒット商品も多く生み、ファッションビルに出店して急成長したりもしたが、UAで最大の成功は?
やはり「グリーンレーベルリラクシング」(GLR)の開発だ。新規業態開発はビームス時代から好きだったが、UAラボという誰もが参加できてやりたいことを意志表示できる仕組みを作り、その第1号案件として藤澤さんが一から立ち上げたのがGLRだ。UAは価格が高かったのでパイが限られるし、当時は2ダース型(24店舗)のミニチェーンと表現して商売していた。ただ、ビジネスの軸が何本か必要だったし、数がないとお客さまの立場に立った時に価格設定を含めて良いモノが作れない。そこでライフスタイル提案型の郊外向けファミリー業態として99年に本格出店を始めた。2014年3月期で60店舗、売上高266億円に。稀な成功パターンだ。
ーー今後のUAに期待することは?
商品政策と販売政策をブラッシュアップし続けるしかない。最後の2年間で技術体系として作り上げてきたので、これを海外に持っていき、出店国向けに言語化をして伝えられたら。震災後に日本の精神性や美意識、モラルなどが欧米から評価された。日本のサービスとはこういうものだ、おもてなしの心はこういうものだ、というものを世界に広めたい。日本人はお客さまのため、利他のために尽くせる唯一の民族だと思う。歩合の文化、チップの文化の下ではサービスはただの労働の対価だが、日本は独自の文化があり、他国にない競争力になる。海外のファッションビジネスに携わる方々は特にそう感じるようで、「UAがそのままNY・パリにあったらいいのに」と言われる。私としてはアジアではなく、欧米に出て価値を試したい。パリのサンジェルマン・デ・プレ奥にある虎屋の隣に店を出すとかね。
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