「ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。」や「2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体」「漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及」などの同人誌を発行する会社員兼評論作家の手条萌(てじょう・もえ)が「M-1グランプリ2024」をどう見たのか、寄稿してもらった。
20周年を迎えた「M-1グランプリ」の今年のスローガンは「お前たちが一番おもしろい」。歴代のチャンピオンが観客席に座り、舞台を指さして爆笑するキービジュアルが印象的だ。そんなアニバーサリーイヤーであるが、予選期間中もしばしば開催意義を問われる声が聞こえてきた。主には松本人志氏の不在について、または令和ロマンの再エントリーについてが議題に挙げられ、「M-1」は2010年のように一定の役割を終えたのだから、もう1度終了してもいいのでは」という言説を見聞きする機会が多かった。それでも松本氏の忘れえぬ存在感をリライトするためにそれぞれがそれぞれの場所で戦った1年だったように思う。ただ、このような物語性もお笑い評論好きが設定したがるテーマでしかなく、実際は誰が審査員席に座ろうがそれはそれとして、「M-1」を開催しなくてはならない、という事実があるのみだ。
とはいえ、やはり今回の最も特筆すべきことは審査員の一新である。松本氏の不在のみならず、山田邦子氏やサンドウィッチマン富澤氏の降板、そして9人制に変更というのは大きな話題となった。自身も最高順位2位であり、YouTubeやABCお笑いグランプリ、昨年の敗者復活戦で、審査員として高評価だったかまいたち山内氏や、かつて敗者復活戦から2位となった経験のあるオードリー若林氏の抜擢など、過去のプレーヤー陣がここに審査員として舞い戻ってくるという構図はエモーショナルな出来事として歓迎された。彼らはそれぞれにファンも多くついており、今もなお単独ライブや公演に出演する現役の漫才師である。漫才師が漫才師を審査するということについては、よりプレーヤー目線の審査基準となることも期待されたことだろう。また、単純に平均年齢が下がっていることのみならず、人数の増加によって、審査の目や基準の幅がつけられることも望まれているように見えた。
決勝戦冒頭で放送された、創始者である島田紳助氏の「いつまでもM-1が夢の入口でありますように」というメッセージは、放送したことそのものも含めて非常に賛否が分かれているが避けられなかったことに思える。その理由は開催意義の再定義のためだ。「M-1」を語る際に今でも掘り起こされる島田氏の「漫才を辞めるきっかけを作る」という開催定義だが、辞めるきっかけよりも大きい意味を「M-1」自身が含むようになったのは自明の事実である。国民的なビッグコンテンツとなった今、辞めるためのきっかけという定義をいちいち思い出してトーンダウンし悲しくなる必要はない。そんな開催意義を持ち出すまでもなく実際に何人もが去っていく以上は、大きいコンテンツであることを押し出すほうが意味の通りが良いに決まっている。「M-1」自身が20年という長い月日をかけて自己をハックしつづけてきた結果、「辞めるきっかけ」を「夢の入り口」と言い換えることに成功したのだった。実は同じことを言っているようにも見えるが、再定義がなされたということ自体に大きな意味がある。
敗者復活戦
2023年大会からシステムが変更された敗者復活戦だが、会場の新宿・三角広場の声の反響や会場のスケールを鑑みると繊細な構造のネタや寄席向けのネタは伝わりにくいと思われる。そのため、国民投票制だった22年までとはまた違う理由でローコンテクストなネタを選定した方が有利という考え方がある。つまりファイナリストの選定基準と敗者復活のそれとは明らかに異なるので、たとえ勝ち上がって決勝の舞台に立ったとしても、マユリカ阪本氏の言うところの「爆速で負けに来た」という事象が発生してしまう。
その原因として考えられることは多数あるが、決勝当日までのプロモーションや露出に差があることも大きく影響しているだろう。ファイナリストとして半月ほどの露出機会が与えられるのと、暫定的に入れられていた「敗者復活」の文字に代入され、テレビ朝日に到着する30分ほどの間だけカギカッコつきの「ファイナリスト」として扱われるのでは、階層も意味も重みも異なる。よって、決勝戦のテーマを解釈しきれないままにネタを選定することになるので、決勝から浮いた存在となりリジェクトされるという展開となることがほとんどである。立場が人を作ると表現すると残酷に聞こえるが、ファイナリストたちは半月の間自覚を持ち、自分たちが選定された意味を自問自答し、可能な限り最適解を出そうと試みる。その意味では、年末の東京をタクシーで移動するドラマテチックさと物語性、高揚感のためにすぐに消える花火としての1組を選定する作業としては、現状の敗者復活戦のシステムはいささか真面目すぎるかもしれない。公平さを重視しているということになっているが基本的には後攻が有利になっている印象もある。しかしその建て付け上ネタの選定自体は派手なものの場合が多いので、お祭り的要素はかなり大きい。そのため数字としては記録されないが、記憶には残る名作が生まれやすい。各ブロックで個人的に特に印象に残った組を振り返る。
敗者復活戦(TVer)
Aブロック 1~7組目
https://tver.jp/episodes/ep1v68to4i
Bブロック 8~14組目
https://tver.jp/episodes/epqe3e59zn
Cブロック 15~21組目+結果発表
https://tver.jp/episodes/epyf3jw4uk
ダンビラムーチョ(Aブロック)
得意としている歌唱要素も取り入れつつ虫を顔芸で表現するという、構造としてはかなり技術が必要な漫才をやってのけていた。非常に牧歌的なモチーフとムードに、フニャオ氏のちいかわのようなツッコミがベストマッチし、言語化の外にある「なぜその顔がその虫なのか」という疑問と「でもなんとなく分かる」という暗黙の共通認識があぶり出されて笑いを誘う。ちいかわの世界のような、あるいは故郷の長野や山梨のような広大で神秘的、だが畏怖を感じさせる自然が喚起され、ほかではあまり見かけない唯一無二のネタとなっている。
滝音(Bブロック)
滝音がひさしぶりに敗者復活戦に出場するということで、高揚を隠し切れないお笑いファンも多かったことだろう。圧倒的に洗練されたネタは聴く者の心地よさを刺激する。これまでの主な彼らの落選理由は、主軸のなさや必然性のないワードの無理のある挿入が挙げられがちだが、今回は全てが解決されていた。かつ、ものすごいスキルアップをしていたように見受けられる。努力の積み重ねで常にゾーンに入れることを可能にしていた。全ての展開にもワードにもまったく違和感がなく、ストレートでの決勝進出も不可能ではなかったと確信した。しかしそんな滝音が、同じく大阪の「よしもと漫才劇場」出身のマユリカや豪快キャプテンと同じブロックで戦わなくてはならないなど、なんという悲しいことだろうか。
インディアンス(Cブロック)
かつて国民投票時代の敗者復活戦での復活を果たしたことがあるため、ちょうどいい塩梅を知っているのでは、という視点で有力視されていたインディアンス。今回のネタは劇場や寄席ではかなりウケていた。出ハケをネタにする漫才やメタなものは予選の審査員には評価がされにくいとされているが、芸人審査員かつ客席審査の場合はそのロジックはたしかに無効化されていて、非常に盛り上がりやすいものとなっていた。しかし細かい要素なども大いに含んでいるため、大きいハコよりは劇場の方が分かりやすいネタではあるだろう。
決勝戦 ファーストラウンド
システム変更された23年から特に敗者復活戦の鑑賞カロリーが高く、本編の決勝戦にたどり着くまでに鑑賞側もかなり消耗している。それをミーム化すると「お風呂に入る時間がない」ということになり、文字通りずっと「M-1」にかじりついていることになる。一息ついたところで始まる決勝戦の華やかな演出と舞台を見て、ここでようやく“Mおじ”よろしく「M-1やなあ」と実感する人も多いことだろう。夏から始まった戦いももう今日で終わりだと思うと感慨深くなり、最後の日までネタができる組、そして一番多くネタができる組は幸せだろうと思いをはせる神聖な時間となる。さて、ここからは順を追ってそれぞれのパフォーマンスを振り返る。
決勝戦 ファーストラウンド(TVer)
決勝戦 FIRST ROUND 前半戦 1~5組目
https://tver.jp/episodes/epe7627fyg
決勝戦 FIRST ROUND 後半戦 6~10組目
https://tver.jp/episodes/eppbvdgnqj
令和ロマン
「M-1」鑑賞者にとっての知名度は間違いなく100%だろう令和ロマン。消費されないように戦略を練りつつも本来なら半月ほどで行うファイナリストとしてのプロモーションを1年かけて行ってきた。本人たちはヒールであろうとしていたがおそらくそれも計算で、1年間ずっと、人々から連覇を願われた存在だった。阿部一二三選手が笑御籤(えみくじ)を引いた時、全ての運命が決定づけられた。トップバッターということはつまり勝てると、昨年の経験から全員が脊髄反射的に思ったことだろう。彼らがせりあがって来た時、全員が令和ロマンの登場を待ち望んでいたという空気に包まれ、会場自体の高揚感は早くも最高潮を迎えた。おそらく多くの人が連覇を予感し、「ということはこのあとが低調になるとまた、彼らの望みが果たされないのでは?」というところまで爆速で思考を巡らせたことだろう。大会自体の展開への一抹の不安はありつつも、令和ロマンのこと自体はもう誰も心配していなかった。手垢のついた言葉で言うなら、運命が味方をしていて、実力があるからどんな状況も「運がいい」状態にしていっている。もはや全員が忘れていると思うが、昨年まではトップバッターは死刑宣告ではなかったか? しかし彼らはそんな悲壮な呪いをすべて解いていった。自分自身のために、そしてお笑いの未来のために。
ヤーレンズ
この1年、「ヤレロマ」として令和ロマンと肩を並べて語られていた存在である。そんな盟友の令和ロマンが場を温めまくったあとの登場となり、運命の皮肉さを感じさせる一幕だった。審査員の海原ともこ氏の言うとおり、ディテールのくだらなさをもっと求めたくなる漫才だった。加えて、この形式の漫才は安定的なおもしろさを担保するにはうってつけではあるが、爆発箇所を作ることが肝要であるという見方を多くの人に提示させるネタとなっただろう。
真空ジェシカ
審査員の平均年齢が下がったことによって評価されるようになった……と言われがちであるが、実は彼ら自身の調整力にもすさまじいものがあったように思う。調整というのは往々にして丸くしすぎて良さが失われることが多いが、リスクを恐れずにエッジを残し、迎合しすぎないようにしていたところだった。代入するワードを選定する大喜利力が構成を凌駕してしまえば、ベースの整合性や流れはそこまで重視されない。というかもう、それを放棄してまで評価したくなるような強さがあれば何も問題ない。長年唐突感が課題と言われていた彼らだが、ぶつ切り上等でパワーを見せつけつつ悪辣度は下げながらも怖さは残す、という正解に導けた結果がファイナルラウンド進出として結実し、青春の疾走感として見る者の心をつかんだ。
マユリカ
敗者復活戦ではかなり強度の高いネタで、お笑いウォッチャーの期待値が上がっていた。ちなみにクレイジー舞妓ものは見取り図やドーナツ・ピーナツなど大阪吉本からキャリアスタートした組で名作が多く、マユリカのチャキ姐もその系譜である。
ファイナルで披露した同窓会は、チャキ姐や過去の「へんてこしっこ」に比べると物足りない感覚になった人たちが多かったかもしれない。ただ、いきなりの本番で最適なネタを出すのも難易度が高く、この場合に比較されるのはほかのファイナリストのみならず、過去の敗者復活戦からの進出者、そして過去のファイナリストとしての自分たちだ。即敗退してしまったが、マユリカの力は多くの人に認知されており、その期待が高かったという共通認識を皆が抱いている証左であり、決して悲観するようなことではない。このスパイラルに飲み込まれると苦しくなってくるのだが、圧倒的平場力で負け顔を見せつけるキモダチムーブはカラッと明るく、悲しみから一番遠い場所での敗退だったと思う。
ダイタク
満を持して、というべきだろうか。アニバーサリーイヤーとしては、第1回のチャンピオンが兄弟であったということから、双子漫才は原点回帰かもしれない。伝統的な兄弟漫才からさらに踏み込んだ、ダイタクならではの双子漫才というおもしろさを多くの人に見せつけることができた。昭和とまではいわないがいい意味での平成らしさと、東京吉本らしい安定的な漫才は芸人の中にもファンが多い。多くの人に愛されて、最高の形でラストイヤーを終えることができたと思う。
ジョックロック
一発で仕留めるという手法がもっとも美しいと多くの人が知っている今、それが可能な初出場組に期待がかかる。大喜利力という面では最後までもう少し山が何度かあるとなおおもしろさが増していたと思うが、大阪センス系と呼ばれかねないネタをここまでポップに押し出し、誰にも悪い印象を抱かせないのは実力だろう。
バッテリィズ
一発で仕留めることについて諦めなかった人々の願いと、あの伝説の2019年を繰り返しているかもしれない高揚にボルテージが最高潮を迎えたとも言えるが、実際は、ただただバッテリィズが素晴らしくて、研鑽を続けていたからこその結果だ。それに他ならない。宝物がバレた。ネタを見ている時に数分後の絶賛を確信するあの感覚、1年のベストパフォーマンスがこの日にできるという喜び、全てがただただうれしく、鳥肌が立ち、涙が止まらなくなる。ネタが終わってほしくない、ずっとこの気持ちでいたいという気持ち。個人的な感情として、私は何度も何度も愛する漫才師と別れを告げ、競技漫才論も増え、自分のような人間なんてもう老害で、東京の大学お笑いにリライトされちゃう側だからもう「M-1」を見る必要なんてないんだろうな、と思ってクサクサした気持ちでこの数年間過ごしていた。だから、またこんな日がくるなんて思ってなかった。何も信じられなくて、こんなにバッテリィズがおもしろいのにどうせ空気ってことにするんだろと思ってた。でもそんなことは思ってはいけなかった。信じること以外ないのに、一番大切なことを手放そうとしてしまっていた。Xでは、生を肯定するバッテリィズが救済系などと呼ばれ始めているが、私もバッテリィズに救われた一人である。
エース氏の「生きているだけでいい」的思想は、まぎれもなく彼が憧れている明石家さんま氏の「生きてるだけで丸儲け」を継いでいる。好きとか嫌いとか、大学お笑いだとか養成所だとか、何が知性で何が知性じゃないとか、東京だとか大阪だとか、吉本だとかそうじゃないとか、若いとか若くないとか、全部関係ない。そこにはただ、輝く漫才があるだけなのに。それだけでいいのに。それだけでよかった。
ママタルト
この形式だと類似の漫才との比較で不利になっている。今年割と芸人やファン界隈で言及された表現として「シャバい」というものがある。額面通り受け取ると俗っぽいとか、大衆迎合しすぎという表現だが、M-1が国民的なものである以上はある程度のシャバさは必要である。その調整がなかなか難しいところである。
エバース
お笑いファンは長い間この日を待ち望んでいたことだろう。逆に言うと彼らにとってはかなりプレッシャーの多い年だったように見受けられる。そもそも過去に「M-1」のファイナリストだったことはないのに、ものすごく期待されすぎていた。その期待や、ABCお笑いグランプリでの悔しさを糧にジャンプアップし、今年1年の中でもベストのパフォーマンスを発揮できたのではないだろうか。ネタ自体もいい塩梅のモチーフと展開である。「どうでもいい」と思われて心が離れない程度の没入感を与えることに長けていた。消費されすぎることもなく、世間にも印象づけることができ、かなりの健闘だったと思う。
トム・ブラウン
ベースの展開に整合性を求めたいが大喜利力の強さもほしい、そして競技漫才としての戦略も立ててほしい。すなわち、なにもかものバランスを取った漫才でなければ……とか思っていると、先述した通り何も分からなくなり、もう漫才を見るのをやめようかなとすら思う日々を過ごしていた。今回のファイナリストが発表された時、「バッテリィズが無理なら、トム・ブラウンに優勝してほしい」という、トムブラ待望論を抱いた。
しかし、自分がそのような気持ちを抱くことが不思議でならなかった。なぜなら志らく系……もとい、破壊系の漫才はあまり好みでなく、笑えればなんでもいいというわけではないと思っていたからだった。それなのに、なぜかトムブラを待望した。その理由は審査員のNON STYLE石田明氏の「普通の漫才がもう笑えない人向けの漫才」という講評に詰め込まれていた。一定数のウォッチャーはもう普通の漫才で笑えなくなっていたんだろう。笑えればなんでもいいというわけではないと思っているのに笑えないと、それはもう漫才を見ることをやめるどころか、今後の人生で笑うことをやめなくてはいけなくなる。だから私はまだお笑いや漫才や「M-1」をこれからも見ていたくて、自分の人生からお笑いを捨てたくなくて、無意識のうちにトムブラに助けを求めていた。ネタ自体は無秩序で、ハッピーエンドではあるが無理矢理なので怖い。とにかく怖いのに優しいので余計怖い。だかおもしろい。死と再生。必然性があるようでない、ないようである不気味なアイテムと行動原理は死をもって生を肯定する。それはつまり逆説的にバッテリィズと同じテーマで人々をエンパワメントしている。トム・ブラウンに助けられた私は、これからも笑うことをやめない人生を歩んでいけるはずだ。
決勝戦 最終決戦
決勝戦 最終決戦(TVer)
https://tver.jp/episodes/eppud7i9f1
令和ロマンはABCお笑いグランプリやこれまでの予選でも評価の高い路線である、不気味系民俗ものともいうべきネタだった。このネタをファイナルラウンドで披露しはじめた瞬間、さらにいうとバッテリィズという1年間待ち望んだ好敵手が浮上したほんの数十分前に、令和ロマンの願いは果たされたことになる。この大会を良きものにしたい、という義務が肩の荷から下りた瞬間に全てを爆発させた。正直かなりネタとしては荒い部分もあるが、そんなことは一切関係ない。というか関係ないということにさせた。いくらエリートでも高学歴でも最初から主人公になれるわけではない。令和ロマンは物語も挫折もないから主人公になれないとか、出来がいいから孤高の存在だとか、そういう言説を全部拒否し続けたのだった。物語がないなら作ればいいし、一生懸命になればライバルは現れてくるものだというのをこの1年8分で見せつけてきた。その流れに真空ジェシカも追随した。やれ4回目のファイナリストがどうだとか、何度も出場しているだとか、だからなんなんだよといわんばかりの大暴れっぷりは気持ちよくすらあった。さや香の見せ算的マインドが報われる瞬間でもあったのだった。バッテリィズがファイナルラウンドで2回目のネタをしているという事実は、多くの人々にとって希望として心に刻まれたことだろう。バッテリィズが準優勝といううれしさは、これからも漫才を愛する十分な理由になるはずだ。
PVではバッテリィズVS令和ロマン&真空ジェシカで反知性VS知性という構図が描かれており、その解釈を求める向きも強いが、それは表面のモチーフにすぎない。大学お笑いをリライトするのはおバカだ! ライフイズビューティフルはやはり正義! とか言ってしまうのは簡単だがそれは代理店脳すぎである。そもそも大学に在籍したことがある人や、都知事選とかネットミーム的なワードを知性というのは、ちょっと知性というものをバカにしすぎやしないだろうか。どちらかというと真空ジェシカや令和ロマンの挙げるモチーフや展開は、知性というよりあるあるで、加えておバカ系とも言える勢いがあったから評価が高かったのではないだろうか。知性と反知性の二項対立的発想を、マーケ的視点に引っ張られると大切なもの、つまりお笑いの見方も分からなくなり、自分の好きなものも分からなくなる。そうするとまたトム・ブラウンが化けて出てくる。気を付けた方がいい。
まとめ
権威とは、審査員の面子でも印象でもなく、歴史のことである。歴史があるから、そして茶化さずに「ガチ」で向き合ってきた先輩方がいるから重みがある。つまりみんなで作り上げた20年間で、それらを全て却下するようなことはできない。キャンセルしていいことと、そうでないことがあるという是々非々の視点を持っていることがお笑いに関連する人たちの矜持なんだろうと思う。良いことも悪いことも、全て内包して進んでいくのが生きることである以上、過去を想うこともまた必要なことだろう。