フロンティアたちの生き方や働き方通して、ファッション業界で生きていく指針を探る。第一回目は時代小説に新風を巻き起こし、出版不況が続く中でミリオンセラーを連発する作家の和田竜(りょう)が登場する。作家活動の原点は、昼は繊維業界紙の記者、夜はコンクールへの応募のためのシナリオの執筆、という二重生活にあった。実績が無くても、諦めず”プロ”のクリエイターになるための生き方とは?
WWDジャパン(以下、WWD):最近はどう過ごしていますか?
和田竜(以下、和田):今は連載や執筆をしていないので、昼過ぎに起きて、朝方に寝る生活です。仕事はたまに短いコラムを書いたり、講演をする程度で、基本的には以前に購入した史料を読んだり、好きな映画を観ていることが多いですね。
WWD:「週刊新潮」での連載中はどのような生活なのでしょうか?
和田:夜の12時から朝5時までが原稿執筆。その後に寝て、午後3時過ぎに起きて、午後8時まではご飯を食べたり、原稿のことを考える、昼夜逆転の生活です。週刊紙の連載は1回で原稿用紙20枚分なので、出版社には月ごとに80枚を渡していました。自分の目安としては1日5枚のペースで書いていました。
自分が面白いと思えるまで考え尽くす
WWD:最初に出した「のぼうの城」が、200万部を超える大ヒットに。連載中のプレッシャーは大きいのでは?
和田:書いている最中にプレッシャーを感じることは全くないです。執筆時に心がけているのは、自分が面白いと思えるまで考え尽くすこと。そもそも僕の本の書き方は、テーマを思いついてから、話の筋やキャラクターなどを決めるコンストラクション(構成)を考え、その後にシナリオを書き起こして、そうしてからやっと小説に落としこむというスタイルです。連載が始まった段階ではシナリオまで出来ているので、連載中はシナリオから小説に書き起こす作業のみに集中しています。「村上海賊の娘」の場合は史料調べに1年、シナリオ執筆に1年、連載に2年ほどかかりました。本になるまでに4年以上かかりましたが、その間は先ほども言いましたが、面白くするために考え尽くします。大変なのはテーマ設定からコンストラクションまでです。途中で自分が面白くないと思えば、時には全部ひっくり返して、最初からやり直します。その作業を妥協せず、やり抜くのが大変ですね。
WWD:本を出す前に、売れるかどうか分かるものですか?
和田:これまでの最低発行部数が単行本で10万部なので、“10万部”を基準にしています。出版界で10万部というといまは大変なヒットですが、テレビを考えると視聴者数10万人という数字はそんなに大きくない。そういった違いはあるけど、10万人が面白いと思ってもらえる本を書こう、というルールを自分の中に設けています。
就活が上手くいかず、就職した制作会社で挫折を経験
WWD:学生時代は演劇をやっていて、映画監督志望していました。どんな演劇だったのですか?
和田:6年間の学生時代は劇団に所属していて、演出とシナリオ、それに出演もしていました。いわゆる小劇場サークルで、侍が出てきたり、共産党が出てきたり、話の中身はいわゆる何でもあり。学生時代には3本くらい作りましたが、5〜6年目は就活をしていたので、実質の活動は4年間です。
WWD:就活はマスコミ志望ですか?
和田:テレビ局志望でした。映画監督になりたかったので、映画会社に入りたかったのですが、映画の製作会社から監督になるのは本当に狭き門で、数年に1人、採用するかしないかという状況でした。なのでテレビ局のディレクターとして経験を積もうと思ったのですが、結果は全滅。結局ドラマを作っている制作会社に入りました。
WWD:就職してみて、どうでしたか?
和田:初日で向いてないと思いました(笑)。ドラマの現場ではまずアシスタントディレクター(AD)から始まって、大体テレビ局の社員だと3〜4年で、制作会社だと10年でディレクターになる、というのが一般的です。でも僕の場合は何をやってもいつも怒られてばかりいて、これだとディレクターになるまでに10年以上はかかる、そうなると40歳になってしまうと思いました。それでも、すぐに辞めたら辞めグセが付いちゃうから、向いていないとは思いながら3年間は働きました。
WWD:辞めた後に繊維業界紙の「繊維ニュース」に入社しました。その理由は?
和田:制作会社で働いていた時に、テレビでは“物語をゼロから作る”のはプロデューサーと脚本家で、ディレクターはほとんど関わらないことを知りました。僕が映画監督になりたかったのは、自分で物語を作ってみたかったから。ディレクターに向いていないことを知り、映画監督になる夢を諦めた時に、脚本家を目指すことに決め、仕事をしながらシナリオを書ける仕事を探しました。「繊維ニュース」の面接で、「残業は無いですか?」って聞いたことを覚えています。
WWD:どんな社員でしたか?
和田:基本的にシナリオの執筆を生活の中心にしていたので、当時は朝8時に起きて会社に行き、仕事を終えて19時に帰宅するといったん就寝。その後は夜12時から朝の5時までシナリオを書き、一度仮眠してから会社へ行くという毎日でした。なのでよく遅刻していましたし、他の社員からすると、「何だこいつは?」と思われても仕方がなかった。でも会社にはいい人が多くて、居心地はよかったです。それにあくまで今思えばですが、シナリオを書く、あるいは小説を書く時に、業界紙の記者の経験はとても役に立っています。
WWD:具体的にはどんなところでしょう?
和田:多くの武士を率いる大名や武将って、物事をジャッジしたり、部下にいい働きをしてもらうなどの点で、現代の企業の社長と共通する部分が多いんですよ。「繊維ニュース」の時に経験した社長や役員への取材は、小説の細かいディテールを考える上でかなり影響しています。
WWD:2003年に「忍ぶの城」(「のぼうの城」の原作)が、映画の脚本コンクール「城戸賞」を受賞しました。それまではアクション物が中心だったんですよね?
和田:脚本家の業界は、コンクールに入賞すれば一応プロの免許がもらえたことになり、仕事が来るようになります。「繊維ニュース」の時は、1年に1〜2本のシナリオを書いて、コンクールに応募。アクション物や「忍ぶの城」など6〜7本を書きました。前年に書いた初の時代物の「小太郎の左腕」(のちに小説として出版)が「城戸賞」の最終選考に残り、手応えを感じていたので、「忍ぶの城」が城戸賞を受賞した時に、時代物が自分には向いていると思いました。
WWD:これまでを振り返ってみると、ターニングポイントはどこでしょうか?
和田:どん底だったのは、制作会社で働いていた時です。「繊維ニュース」で働いていた時は“脚本家を目指す”ことが、自分の背筋をピンと立たせてくれましたが、制作会社時代は挫折もあって毎日が辛くて仕方がなかった。とはいえ「繊維ニュース」時代もシナリオを応募しては落選の繰り返しで、途方に暮れたこともあります。けれどもその時も、働きながらシナリオは一生書き続けてやろうと思っていました。これは性格が粘着質だからなのかもしれません。一度書き始めたシナリオを途中で投げ出したことはないですね。
WWD:城戸賞を受賞後はトントン拍子にも見えますが?
和田:うーん。運がいいのは確かです。「忍ぶの城」は映画のプロデューサーがすごく気に入ってくれて何年も映画化のために動いてくれたし、予算が大きすぎてプロジェクトが途中で行き詰った時には、まずは小説にしたらと、小学館の編集者を紹介してくれました。そのことが「のぼうの城」の出版に繋がり、専業作家の道を拓いてくれました。
WWD:転職を考えている人にメッセージをお願いします。
和田:振り返ってみると、今自分がここにいるのは、運や人との繋がりとともに、継続してきたからだと思います。作品を書くことは孤独な作業の繰り返しです。誰も助けてくれません。テーマ探しから、構成、執筆まで、ほぼ全ての部分を自分1人で考え抜くことができるのは、自分のやりたいことだから。僕自身がダメな会社員だったので偉そうなことは言えませんが、仕事が嫌だからという理由で辞めると、自分の中に禍根を残して途方に暮れることになります。どんなに苦しくても、辞めるときには自分自身が納得できる次の道を見つけることが大事だと思います。
■プロフィール
年 |
出来事 |
1969年12月25日 |
大阪で生まれ、生後すぐに広島に移住 |
1984年 |
都立富士高校1年生の時に映画「ターミネーター」を見て、映画監督を志す |
1988年〜1995年 |
早稲田大学政治経済学部に入学。小劇団に入り、脚本・演出を手掛ける |
1995年 |
テレビドラマの制作会社泉放送制作に入社。豊川悦司と常盤貴子主演の「愛していると言ってくれ」などにADとして関わる |
1998年5月 |
繊維業界紙「繊維ニュース」に入社。業界紙記者として、経済産業省、素材、スポーツアパレル、ユニフォームを担当 |
2002年12月 |
映画のシナリオコンクール「城戸賞」で、初めて書いた時代物「小太郎の左腕」が最終選考に |
2003年12月 |
映画のシナリオコンクールで「のぼうの城」の原作になる「忍ぶの城」が「城戸賞」を受賞。 |
2007年11月 |
処女作の「のぼうの城」が小学館から出版。累計200万部を超えるベストセラーに |
2008年12月 |
作家活動に専念するため、「繊維ニュース」を退社 |
2012年11月 |
「のぼうの城」の映画が公開 |
2014年4月 |
「村上海賊の娘」が本屋大賞を受賞 |