世界のテクノクイーンと呼ばれるロシア人DJニーナ・クラヴィッツは、2006年にメルボルンで開催された、レッドブル・ミュージック・アカデミーへの参加をきっかけにDJ/プロデューサーとしての活動を開始。12年のデビューアルバム「Nina Kraviz」は、オンラインのエレクトロニック・ミュージック・マガジン「レジデント アドバイザー」で“ロシアンハウスの金字塔”と称賛された。14年には自身のレーベル「トリップ」を立ち上げ、プロデューサーとしての手腕も高く評価されている。そんなニーナが「トリップ・ジャパン・ツアー」のため約1年ぶりに来日。新木場・アゲハ(Ageha)の東京公演の翌日インタビューに現れた彼女は、無邪気に好みのコーヒーとスイーツを選び、可愛らしい仕草のまま自身のルーツを語り始めた。エレクトロニック・ミュージックシーンの頂点に立つ唯一無二のクリエイション源は、生い立ちに深く関係している。旧ソ連崩壊後のロシアに育った時代背景は、何をもたらしたのか。
WWDジャパン(以下、WWD):DJとしてデビューするまでのキャリアは?
ニーナ・クラヴィッツ(以下、ニーナ):母親が英語教師で、経済的には普通の家庭環境で育ったの。学生時代は歯科医になるため故郷のシベリアから5000km離れたモスクワの学校に通っていたけれど、医学系大学は学費も高く勉強もハード。生活を維持するため3つの仕事を掛け持ちしていたわ。中でもアート雑誌のライターで音楽の記事を書くときが、気持ちを開放できる唯一の瞬間。YMOやキョート・ジャズ・マッシブといった日本のアーティストを知ったのもその頃ね。モスクワでアーティストをアテンドしていた時に、沖野(修也)さんと出会い、中古レコード屋に一緒に行ったらジャズピアニストのジョージ・デュークのレコードをプレゼントしてくれたの。それからレコードコレクターになり、音楽にのめり込んでいったわけ。学生時代は、1年ごとに異なるジャンルにハマって、バンドを組んでツアーにも出たわ。08年には歯科医をやめてDJに専念することになり、モスクワのクラブで回し始めたけど、成功するにつれて周りからの嫉妬を受けるようになって、人間関係のトラブルが原因でやめてしまったの。思い出すと辛い出来事だけれど、その後、世界各国から仕事のオファーをもらうようになったことを考えると、今に至るまでのターニングポイントだったと思う。昔「ボス(BOSS)」の広告にモデルとして出演したこともあって、結局モデルでは成功しなかったけれど、アーティストとして再度声をかけてもらい、モデル時代のコンプレックスを吹き飛ばすことができた。何ごとも時が熟すまで待つことが重要で、人生で起こるすべてのことには意味と理由があると思うわ。
WWD:DJを志したきっかけは?
ニーナ:あらゆることが同時多発的に起こったので、きっかけを一つには絞れないわね。当時のソ連はアジア、中東、ムスリムなどカルチャーの集合体でもあって、言葉も食事も音楽も複雑に交わりながら変化を遂げる、世界有数のディープな国だったの。今となっては、育った環境全てがDJを志すきっかけだったのかもしれない。それに今でも国籍はロシアだけれど、常にオープンで国内外の音楽やアート、古いもの、新しいものすべてを受け入れているわ。一方で自分のルーツを持たなければ、ただの模倣なので自己主張していくべきだとも思う。「トリップ」はマネージャーもいないけれど、サポートしてくれるブレーンがいる。世界各国のアーティストがアイデアやクリエイションを持ち寄り、音楽やカルチャーが進化していくための架け橋になりたいと思っているの。
WWD:共産主義から解放された時代に育ち、何がクリエイションに影響を与えた?
ニーナ:私は鉄のカーテンによって遮断された状況から解放されて、何もかもが目まぐるしく変化する真っただ中のロシアで育ったの。旧ソ連の崩壊直後は社会インフラも総崩れでどこにも拠り所がなかった。近所の店では砂糖とパンしか売っていなくて、それさえも配給チケットで購入しなければならないほど、とにかく物資不足の時代。国家の変革は、メンタルさえも変えなければいけないほど痛みを伴うものだったけれど、この歴史的バックグラウンドが、新しいカルチャーに貪欲な興味を抱く性格形成に大きな影響を与えたのだと確信しているわ。特に、異国の地で新しいものに触れてもすぐに馴染んでいける観察眼と、対極的な表面だけではうかがい知れない、奥にメランコリックな感情を秘めたメンタリティは、旧ソ連崩壊後を生きたロシア人の共通点。私も海外で活動する時、厳しい時代に生きた事実を忘れることはないの。異なる言語のカルチャーに触れることなんて、子供の頃には全く想像できなかったから。生活は苦しかったけれど窮屈に感じたかというとそんなことはないわね。犯罪やモラルに反しない限り、アイデア次第で大抵のことに挑戦できる環境だったから。日本のような建前と本音も存在しないので、比較的自由にカルチャーが生まれていたし、特にここ10年、クリエイティビティの発信源としてものすごいスピードで進化している。かつて、全国民が抱いていた西洋に対する羨望ではなく、むしろ祖国を誇りに思う若者が増えたから。ロシアのカルチャーにあらゆる要素をミックスし海外に発信している、言葉を元にしたロゴやグラフィックもそう。ファッションで例えるなら「ゴーシャ ラブチンスキー(GOSHA RUBCHINSKIY)」かしら。
WWD:今、ロシアや東欧のファッションやカルチャーの勢いが増している。注目しているクリエイターは?
ニーナ:作り手よりも作品に興味があるので、特定のブランドにフォーカスすることはないわ。気に入ったブランドでさえ、前シーズンのコレクションに惹かれる場合もある。今は情報過多でファッションも音楽も一貫性に欠けてしまいがちな時代。あらゆる可能性を探り続けなければならないけれど、コマーシャルに偏った主張をするようでは、本当のスタイルなど成立しない。インスピレーション源も枯渇している状態で、あとはどうミックスするかが課題ね。特にこの10年、15年で起こったムーブメントは、すべて過去のリメイクやコンビネーションが主流のフォーマットになっている。2000年以前はそれぞれにシグニチャーが存在していたけれど、新しいカルチャーは登場していない印象ね。ただ、ロシアのファッションについては、若いブランドやデザイナーたちがD.I.Yなカプセルコレクションを行っていることに可能性を感じているわ。
WWD:DIYといえば、先日の「サボン・グルメ(SABON GOURMENT)」×「WWDジャパン」のイベントを終えた感想は?
ニーナ:音楽やアートワークの制作過程でファッションブランドと関わることはあるけれど、ブランド主催のイベント参加には積極的ではなかったの。その意味で今回は規模も含めて、クラブやフェスで熱狂的なファンを前にするイベントとは全く異なる環境だった。ドレスを着てプレイしたり、いつもと違うファッションも楽しめたのでとても幸せで貴重な経験ね。ブースに立った途端、オーディエンスがジッと見つめるのでとりあえずシャンパンを一口飲んでからスタートしたの(笑)。レスポンスも良いか悪いか掴みづらく、何をかけたら良いか考えたわ。今回は1ヵ月以上におよぶワールドツアーの途中だったので、持ち込むレコードの枚数も限られるし、ファンクもディスコもテクノも……という訳にはいかない。そこで、何をプレイするかより、音の流れる空間に浸ってほしいと考えたの。ファッションも音楽も共にアートを抽象化したものの1つ。自分の専門分野はアンダーグラウンドに偏りがちだけれど、それぞれの舞台にあったクリエイションは存在するし、理解しているつもり。実際にみんなが踊ってくれたので手応えはあったわ。
WWD:ドレスアップしてのDJは珍しかったのでは? 自身のファッションへの興味は?
ニーナ:着飾ることは大好きなの。「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」や「ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)」に限らず、もう少しマイナーなブランドでも、日本ならではのオーセンティックなインスピレーション源をベースに尖ったモノ作りをしているファッションシーンからいつも刺激を受けているわ。「ナイキ(NIKE)」や「アディダス(ADIDAS)」といった海外のスポーツブランドとコラボしても、ブレないスタンスが魅力。全てのアーティストに言えるけれど、リミットを設けず、自分の声をストレートに打ち出すべき。何がオリジンでどんな欲求を発展させると自分らしいファッションになるか突きつめるべき。将来はDJの他に、ファッションをマーチャンダイズしていくことに興味があるの。トートバッグやTシャツを作るだけではなく、ブランドとして。まだどうなるのか分からないけれど、ロシアや日本の若手アーティスト、クリエイターと一緒にモノ作りをしてみたいと思っているわ。