日本を代表するテキスタイルデザイナー、新井淳一さんが亡くなった。85歳だった。精力的に活動していた1970〜90年代、新井さんは日本のテキスタイル界の輝ける星だった。手がけたテキスタイルは、ヴィクトリア&アルバート博物館(The Victoria and Albert Museum)やニューヨーク近代美術館(MoMA)など世界の名だたる博物館・美術館に収蔵され、新井さん自身も毎日ファッション大賞特別賞(1983年)、英国王室芸術協会の名誉会員(1987年)、国際繊維学会から日本人初のデザイン勲章(1992年)、英国王立芸術大学(RCA)から名誉博士号(2011年)を授与されるなど、テキスタイルデザイナーとして世界な知名度と高い評価を得ていた。「WWDジャパン」でも88〜96年まで足掛け8年・148回に渡り連載「天衣無縫」を続けるなど、文才にも優れていた。
新井さんは繊維の街として知られる群馬県桐生市で生まれ、地元の桐生高校を卒業後、家業の機屋を継いだ。シルクの帯やお召などの伝統的な和装に加え、早くから真空蒸着などの機械加工やオパール、フロッキープリントといった新しいテクノロジーを吸収し、当時新素材として注目を集めていたポリエステルやナイロンを使ったテキスタイルの開発にも取り組んだ。新井さんの真骨頂はウールの縮絨やシルクの塩縮といった伝統的な技術と、電子ジャカードに象徴される当時の最新テクノロジーを融合し、造形性と創造性にすぐれた数多くのテキスタイルを生み出し続けた点にある。1970〜90年代にパリ・コレクションで衝撃を与えた「イッセイ ミヤケ」や「コム デ ギャルソン」のテキスタイルの多くにも新井さんは関わった。
当時の新井さんの活躍ぶりを、森山明子・武蔵野美術大学教授は「新井淳一―—布・万華鏡」という著書の中で、「ファッションのメッカ・パリに衝撃を与えた日本人デザイナーの服の生地が新井作とわかって欧米メディアが大々的に報じ、海外からの桐生詣でが常態化したのである」と描き出している。同書の中では米国「ワシントン・ポスト」のベテランファッション記者であるニナ・ハイドがホテルオークラの玄関に待っていたハイヤーに乗り込み、一路桐生へ指示するエピソードなども明かしている。
新井さんは以前インタビューした時、当時のことをこう振り返っていた。「ある時、三宅(一生)さんが自宅にジャック・レノー・ラーセン(Jack Lenor Lasen)の『beyond craft : the art fabric』を持ってきて、『新井さん、これからはこういう時代だよ。手仕事だけじゃない。テクノロジーだけでもない。両方を融合することがテキスタイルの新しい時代を切り開くんだ』って僕に言ったんだ。興奮したね。僕らのような機屋にもなにかすごいことができるんじゃないかって」。1973年に発行された「beyond craft」は、当時手仕事やクラフトと捉えられがちだったファイバーやテキスタイルを使った新進気鋭のアーティストたちの作品を紹介し、それらを最先端のコンテンポラリーアートへと昇華させた意欲的な名著だった。新井さんはこうした海外の最先端の時流にも影響を受けながら、新たなテクノロジーを貪欲に取り込んでいった。
日本を始め、アジアやアフリカなどで収集した全世界の民族衣装の柄を何度もスキャンすることで抽象的な柄へと昇華し、電子ジャカードで織り上げた作品や、海外のエスニックな柄を巨大化し、ポリエステルの布にエレクトロニクス分野で使用される蒸着で迫力のある柄をプリントした作品が、新井さんの代表作とされる。原点には、常に文化や生活に根ざした力強い民芸があった。
時代も新井さんを後押しした。当時は東レや帝人などの日本の合繊メーカーが世界を席巻していた。大手素材メーカーは全国の繊維産地に伝わるシルクやウール、コットンなどの加工技術を、新井さんのような先進的な発想を持った産地企業とタッグを組んで取り込みながら、ポリエステルやナイロンなどの合繊と融合した、新たなテキスタイルを開発し、世界中に販売していた。当時はファッションを軸に、クラフトとテクノロジー、デザインとアートが交差した、日本のテキスタイル産業の黄金期だった。
だが新井さんは1987年に自身の会社が経営破たん。2002年にはガンを発症し、胃を全摘するなど、経済と体の変調に苦しんだ。こうした軌跡は、日本の繊維産業の苦難の歴史とも重なりあう。かつて世界を席巻していた日本の合繊メーカーも名門企業のカネボウが05年に粉飾決算の後に経営破綻するなど、繊維事業の縮小やリストラなどが相次いだ。
日本の繊維産業の規模は、1990年代以降縮小を続けてきた。かつてのような華やかさや勢いは求めるべくもないだろう。黄金時代を支えた新井さんのような伝説の職人たちも次々と引退、あるいは世を去った。その意味でも、新井さんは日本の繊維産業の最後の巨人だった。
新井さんの愛した日本の繊維産業はどこへ向かうのだろうか。その答えは、私が新井さんを知るきっかけになった、朝日新聞の小さな囲み記事にあるように思う。まだ社会人になって間もないころ、ふと目にした朝日新聞の夕刊が、東京で開催中の新井さんの小さな展覧会に触れていた。2003年ごろだった。今振り返れば病気や倒産を経験された後だったが、当時も新作を発表されるなど精力的に活動されていた。その記事は字数にしてわずか400字に満たない小さな記事だったが、原点を尋ねられた新井さんは、好きなT.S.エリオットの言葉を引用し、こう締めくくっていた。
「われらは探求をやめない/そしてあらゆる探求の終わりは/われらの発足の地に達し/その地を初めて見ることなのだ」。
合掌