熊本県山鹿市にある世界初の大規模スマート養蚕工場のNSP山鹿工場 (c)taisei
最先端のゲノム編集などのハイテクを駆使して、日本のシルク産業が大きく変わろうとしている。求人広告会社あつまるホールディングスは4月、クリーンルーム内で大量のカイコを飼育する、世界初の大規模養蚕(ようさん)工場の稼働を開始した。現在は試験操業だが、今後の計画では月60万頭を飼育し、年50トンの繭(まゆ)を生産する。同工場だけで、日本最大の産地である群馬県の産出量に匹敵する規模になる。同工場では今後、遺伝子組み換えを行ったカイコも飼育し、アパレル向けのシルク糸だけでなく、創薬や試験薬などの医薬分野にも供給を目指す。戦前には貴重な外貨獲得産業の一つで、ピーク時の1929年には221万戸を誇った養蚕農家は現在、全国でわずか349戸に過ぎず、壊滅状態だった。今シルクに何が起こっているのか。
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工場内部の様子
工場内部の上簇室の様子
工場内部の上簇室の様子
あつまるホールディングスが天空桑園と名付ける、8万本の桑の木を植えた桑畑
11月9、10日、熊本市の中心部から車で1時間ほど北に上った山鹿市に、日本全国からシルクに関わる研究者や商社、官公庁、自治体の関係者など約400人が集まった。現代アーティストのスプツニ子!を筆頭に、農林水産省が音頭を取る産官学の共同プロジェクト、パリとミラノのシルクを巡る産地の動向、スマート養蚕をはじめた他の自治体の担当者によるプロジェクトなどを紹介するイベント「2017新シルク蚕業サミット in やまが」のために訪れた。ある関係者は「つい数年前まで山鹿なんて、来たことも聞いたこともなかった。かつては養蚕が盛んだったと言うけど、ずっとむかしの話だしね。けど今や、日本のシルク関係者でこの町の名前を知らない人はいないよ。世界初の大規模な養蚕ファクトリーができたからね」と語る。
熊本市に拠点を置く求人広告会社あつまるホールディングスは2014年に突如、“スマート養蚕ファクトリー構想”を掲げて、山鹿市に23億円を投じ、無菌状態のクリーンルームで蚕を飼育する工場の建設に取り掛かった。工場の近くには、約25ヘクタールに蚕の餌になる8万本の桑の木畑を造成。約4000平方メートルの同工場内では桑畑で取れた桑の葉を粉砕し、人工飼料にする設備も備え、年間約50tの蚕の繭、シルク糸換算で10tの産出を目指している。
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島田裕太あつまるホールディングス専務
シルク蚕業サミットで挨拶に立つあつまるホールディングスの島田俊郎・社長
島田裕太あつまるホールディングス常務執行役員は、「蚕の飼育に関してもシルクに関しても僕らは完全に素人。今は人工飼料の配合や飼育環境など、いい糸をとるための試験を繰り返し行っている。だが参入を決めた後に調べてみると、思っていた以上に可能性があった。1〜2年以内には世界最高品質のカイコを生産し、5年をめどに最先端のゲノム工学を駆使したメディカル分野への参入を目指す」と強気の姿勢を隠さない。
完全に新規参入である養蚕分野に、20億円超の先行投資は無謀にも聞こえるが、実は世界的に見ればシルクの需要は拡大基調にあり、しかも供給力不足だ。国連食糧農業機関(FAO)によると、1990年に8万tだったシルク需要は2016年には16万tに拡大。さらに米国の調査会社マーケッツアンドマーケッツ(MarketsandMarkets)社によると、世界のシルクマーケットは16年以降、年率7.8%で拡大し、21年には169億ドル(約1兆9000億円)に達する見込みだ。一方、シルクの供給量は減少を続けている。日本だけでなく、世界的に良質な蚕を産出できる中国やブラジルでも養蚕農家は減少を続けており、この数年で生糸の価格は2〜3倍に高騰。すでに国内外の価格差はほぼなくなった。今後の需要増に対して、供給不足は確実で、さらに生糸の価格は上昇すると見られている。
READ MORE 2 / 2 官民でバックアップ、最先端のゲノム工学も駆使
官民でバックアップ、最先端のゲノム工学も駆使
「グッチ」新宿店でのスプツニ子!のインスタレーション
シルク蚕業サミットに登場したスプツニ子!
シルク蚕業サミットのレジュメ
シルク蚕業サミットのレジュメ
シルク蚕業サミットのレジュメ
シルク蚕業サミット会場の様子
あつまるホールディングスの動きに対し、農林水産省をはじめとした政府も全面的に協力する。農水省は自ら“蚕業革命プロジェクト”と銘打ち、傘下の研究機関である農研機構が主体になって、NSP山鹿工場などと連携し、遺伝子組み換え蚕の研究から生産までを進めるプロジェクトをスタートする。
あつまるホールディングスが積極的な姿勢を見せる背景には、農研機構がこの数年、遺伝子組換え技術の急速な発展により、カイコが単なる衣料向けを超え、創薬などの分野でも研究されて、実際に製品化に成功していることもある。農研機構は2000年に世界で初めて、光るカイコの開発に成功。このカイコは、現代アーティストのスプツニ子!を通じ、「グッチ」新宿店でインスタレーション展示され、その後イギリスのヴィクトリア&アルバート博物館(The Victoria and Albert Museum)でも展示された。
カイコの遺伝子組換え技術では、日本が世界のトップを走る。その研究グループの一人である農研機構の瀬筒秀樹・博士は、「家畜として4000年以上の歴史を持つカイコは品種改良を重ねられており、目的に応じた改良がしやすいという特徴もある。カイコの繭から抽出できるタンパク質は、創薬などの医療分野で活用でき、世の中のニーズに応じた遺伝子組み換えカイコをスマート養蚕工場で生産できれば大きな可能性が広がる」と期待を込める。
群馬県に拠点を置く、ジャスダック上場の医薬品メーカー免疫生物研究所はこの4月から実際に、遺伝子組み換えカイコを空調会社の新菱冷熱工業と組み、独自の飼育設備で遺伝子組み換えカイコの飼育をスタート。すでに月間8万頭のカイコを飼育し、その成分を抽出して検査薬として販売している。
これまで日本のシルクは日本固有の文化の象徴として、産業的には壊滅状態にあっても、手厚い保護を受けてきた。シルク関連の業界団体を束ねる大日本蚕糸会の総裁は常陸宮殿下で、日本固有のカイコである小石丸は皇后美智子さまが飼育している。しかし今、新たなテクノロジーを得て、その本来の黄金の輝きを取り戻そうとしている。