コンパニー フィナンシェール リシュモン(COMPAGNIE FINANCIERE RICHEMONT)傘下「アズディン アライア(AZZEDINE ALAIA)」のデザイナー、アズディン・アライアがパリで心不全により死去した。77歳だった。友人であるカルラ・ソッツァーニ(Carla Sozzani)=ディエチ コルソ コモ(10 CORSO COMO)創業者は「苦しまず、安らかに亡くなった」と語った。
チュニジア生まれのアライアは、身体のラインを強調するニットやレザーのドレスで、ボディコンスタイルの先駆けとなり、80年代を象徴するデザイナーになった。彼のデザインは川久保玲やニコラ・ジェスキエール(Nicolas Ghesquiere)「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON )」アーティスティック・ディレクター、アルベール・エルバス(Alber Elbaz)など、多くのデザイナーに影響を与えた。
ヨハン・ルパート(Johann Rupert)=リシュモン会長は「仕事仲間であると同時に素晴らしい友人だった。彼の死に非常にショックを受けており、悲嘆に暮れている。ファッション業界にとって大きな損失だ。彼は誠実で優しく、真の天才だった。彼のクリエイションは永久に生き続けるし、共に働く幸運を得た全ての人に惜しまれるだろう」と語った。
同社のスポークスマンは同ブランドの今後についてのコメントは控えた。数カ月以内にロンドンに初の旗艦店(3層約550平方メートル)をオープン予定だった。
アライアは1940年、チュニジア生まれ。小麦農家に育ち、双子の姉(妹)ハフィダ(Hafida)や家族の友人たちに影響されてファッションに傾倒した。
57年にパリに移り、短期間「クリスチャン ディオール(CHRISTIAN DIOR)」でラベル付けをし、「ギ ラロッシュ(GUY LAROCHE)」でパートタイムのデザインアシスタントを2年務めた。その後、ニコル・ドゥ・ブレジエ伯爵夫人(La Comtesse Nicole de Blegiers)などのためにドレスを作るようになり、セレブリティーや女優などのクライアントを増やした。アライアは女性の身体について熟知しており、若いうちから、彼女たちの嗜好や動きを観察し、パターン作り、カッティング、フィッティング、仕上げまで全て自分で行った。
79年に自身のメゾンを設立。ティエリー・ミュグレー(Thierry Mugler)に強く推されてのことだった。82年にプレタポルテコレクションをスタート。ニューヨークでもショーを行った。ニットとリトルブラックドレスが中心だったが、次第に実験的な素材を使うようになった。「私の服はタイムレスだと言える」と語り、トレンドには見向きもせず、自身のクリエイションに専心した。
2000年にプラダ(PRADA)と提携。パトリツィオ・ベルテッリ(Patrizio Bertelli)=プラダ最高経営責任者こそ、自身の技とアートへの思いを理解してくれるビジネスマンと評してのことだった。この時期にシューズとハンドバッグへとコレクションを拡大し、店舗も増やすなど、ブランドとしても成長した。
07年に自社の株を買い戻し、インディペンデントに。しかし、シューズやレザーグッズの生産はプラダが手掛けるなど、関係は続いた。程なく、リシュモンが同社を買収。黒い中国風の服を常に着用し、自らの家で親しい友人たちに手料理を振る舞い、自身のコレクションをコピーしたと疑うデザイナーを訴えたりしていた。また、コレクションはファッションウイークの日程から外れて、マレ地区のショールームで親密な雰囲気で見せていた。