10月2日にパリ・コレクションが閉幕しても、まだパリは「セリーヌ(CELINE)」の話題で持ちきりだ。今季は発表の場をミラノからパリへと移した「グッチ(GUCCI)」や、これまでになくリアルクローズを展開した「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」、新しい最高経営責任者(CEO)とアーティスティック・ディレクターによって若々しくよみがえった「クレージュ(COURREGES)」など興味を引くトピックスは豊富だが、それら全てをエディ・スリマン(Hedi Slimane)による「セリーヌ」デビューコレクションの話題が凌駕する。
ショー後、私の周りのフランス人女性らは「エディに悪夢を見せられた」「話題性重視の利己主義」「創業者への冒瀆」と、よくそんな言葉が思いつくなと感心してしまうほど痛烈に批判していた。「エディはケリング(KERING)対LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(LVMH MOET HENNESSY LOUIS VUITTON以下、LVMH)のパワーゲームの駒の一つ、2年で使い捨てにされるだろう」という見方に賛同する人も多い。アメリカにブティックを持つバイヤーは「顧客に新生『セリーヌ』の何を提案すればいいっていうの。すでに『サンローラン(SAINT LAUREN)』で必要なアイテムはそろっているというのに」と嘆いていた。プライベートな席で業界人らの批判の声をたくさん聞いていたため、さぞ仏メディアは酷評の嵐だろうと予想していたが、意外とそうでもなかった。
批判はあるが結論としては前向きで、今後に期待する内容が大半だった仏メディアに対し、米メディアはフェミニズムと関連付けてエディを糾弾する内容が多い。「ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)」紙は「2年前にエディがモード界を去ってから、世界はすっかり変わった。当時とは女性たちも違う。女性は前進したが、彼は変わっていない」と指摘し、「ハリウッド・リポーター(The Hollywood Reporter)」紙は「#MeToo運動が1周年を迎えようという今、優れた女性デザイナーの功績を葬り去ってしまうのはタイミングとしていかがなものか」と提起し、米メンズ誌「GQ」は「自分の品位を損なわないものを着たいと思っている女性に対して大ブーイングをした」と揶揄。米ウェブマガジン「ファッショニスタ(Fashionista)」はエディを「一つの芸しかできない子馬」とまで言い放った。私はこれほどまで明確に、両国の見解が異なるのを見たのは初めてだ。それは両国の文化とメンタリティーの違いが浮き彫りになるようだった。
米仏の男女の在り方の違いについて参考になるのは、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)が、1947年に4カ月間旅行した米国での滞在日記「アメリカその日その日」に記した、フランス女性から見た米国の男女関係に対する違和感だ。彼女はフェミニズム理論家・活動家で、20世紀ヨーロッパの女性解放思想の草分け的存在として知られている人物だ。その著書の中で「個人主義的に自分のためにドレスアップをするフランス女性」とは対照的なアメリカ女性について「(米国では)男性に対する態度に何かといえば攻撃的に出る女性たちにもかかわらず、彼女たちは男性のために着飾っている。身に着けるのは明らかに自分たちの女らしさを強調し、男性の視線を引き付けるべく用意された装飾品だ。それに、私はアメリカの女性の化粧が猛烈に女らしく、性的といえる特徴を帯びているのにびっくりした。フランス女性はこれほど屈辱的な厚化粧はしない」とつづった。
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