平成ファッション史を語る上で欠かすことができないのが、1990年代半ばから盛り上がりを見せた「ギャルブーム」とその聖地といわれた「渋谷109(マルキュー)旋風」、そしてそこで働く販売員たちに注目が集まった「カリスマ店員ブーム」だ。若い女性がファッションもカルチャーも経済さえもけん引するパワフルな時代だった。
その象徴的な人物が、森本容子だ。「エゴイスト(EGOIST)」の販売員時代からテレビや雑誌で紹介され、99年に「カリスマ」が新語・流行語大賞を受賞した際の説明文には、「森本容子ら」という説明が入っていたほどだ。その後、プロデューサーとして「マウジー(MOUSSY)」をデビューさせ、後に独立して「カリアング(KARIANG)」を設立。雑誌「アエラ(AERA)」(朝日新聞出版)の「現代の肖像」や、中居正広が司会を務めるTBSの“金スマ”(「金曜日のスマイルたちへ」)でその半生が取り上げられたりもした。
令和の時代を迎えた今、森本容子にあの頃と現在、そして未来への思いを聞いた。
-「WWDジャパン」には2000年代に70回以上連載に登場してもらいました。大人向けのシンプルなカジュアルブランド「バンカー(BANKER)」のデビューまで報じましたが、最近はどんな活動をしていますか。
森本容子(以下、森本):拠点としているバリと東京とを行ったり来たりしながら、引き続き、ヨーコモリモトデザインオフィスの代表として「カリアング」や「バンカー」、雑貨をセレクトした「YMDO」、ショップチャンネル向けの「ヨーコモリモト(YOCO MORIMOTO)」などを手掛けています。昨年12月に待望の第一子が生まれたため、しばらくは仕事をスローダウンしているところです。最近は平成の振り返り企画などで取材を受ける機会も増えています。
-マルキューブームやカリスマ店員ブームは、ファッションの枠を超えた社会現象にもなりましたし、クイックで商品を作って高速回転させるOEM(相手先ブランドの生産)型のビジネスモデルで成功したという面でも画期的でした。猛烈だった時代を振り返る前に、あらためてこの業界に入ったきっかけを聞かせてください。
森本:軽い気持ちで始めたアルバイトがきっかけです。高校時代にサーフィンにハマり、冬でも海に入っていました。雨の日にはすることがなくて、池袋のサンシャインユー(商業施設の三越YOU館)にウインドーショッピングに行ったときに「クラブカリフォルニア」(現「リトルニューヨーク」)の男性店長にスカウトされたんです。でも、高校生は雇わないから卒業したら来てねということで、春休みから通い始めました。
建築系専門学校の中央工学校に進学し、インテリア・設計を専攻したのですが、美大や建築系の大学などを出た人たちが通うくらいレベルが高く、勉強やデッサンの出来も、将来に対する思いの強さも全然及ばない。しかも濃い色のマニキュアをつけていたら製図にいらない線がついてしまったり、派手な人が少なくて私だけ浮いていて居心地も悪くて。何百万円も授業料や材料費を払ってこのまま学校を続けるよりも、好きな格好をしてお金が稼げるならその方がいいと、2カ月足らずでやめてしまいました。今でいうフリーターの出来上がりです。
-渋谷109がブームになる前は、ギャル系の服で一番勢いがあったのは池袋のサンシャインユーでしたね。
森本:はい。ギャル服のメッカといえば池袋でした。それがだんだん渋谷109が話題になり、販売員も見栄えのいい子を集めるようになっていきました。「マルキューで働けるのはステータスなんだよ!」といわれても、埼玉在住だった私は通勤が遠くなるからと断っていたのですが、マルキューの売り上げが大きくなる中で、イヤイヤながらも渋谷109店に異動することになりました。そのころ勤めていたのは「カパルア(KAPALUA)」です。責任を負ったり会議に出たりするのが嫌で、「(アルバイト販売員でなく)社員になって」といわれるたびにそーっと店を辞めては次の店に移って、というのを繰り返していました。販売員と社長のキャリアだけで社員経験がないんです、私。
14坪の店で月商2億円以上
マルキューでの嵐のような日々
-森本さんが頭角を現したのが、「エゴイスト」の販売員時代。ピーク時には平日でも500万~600万円、土日などには1日1000万円以上など、とにかくすごい売り上げで、毎日がお祭り状態でした。
森本:たった14坪(売り場面積約46平方メートル)の店で、月に2億円以上売れた月もありました。しかも、買っていく子のほとんどが10~20代前半なので、1000万円のほとんどが現金でした。さすがにアドレナリンが出ましたね。スタッフが着ているものから売れていくので、1日に何度も着替えていました。バックヤードから商品を運んでくる “ランナー”と呼ぶ専門スタッフがいて、1日に何往復もするのですが、品出ししているそばから商品が売れていくというか、お客さまが奪い取っていくというか。嘘みたいな話ですが、本当にすさまじい売れ方をしていました。
-「カリスマ店員」が生まれたきっかけや、当時の心境を振り返ると?
森本:当時、人気の販売員は何人かいましたが、やはり渡辺加奈さんの存在が大きかったと思いますね。彼女が仕入れた服が好きで「カパルア」に入ったのに、すぐに「エゴイスト」のプロデューサーになってしまったんです。それまでの品ぞろえ型のセレクトショップ風の店から、オリジナル中心のブランドにリブランディングするとともに、スタッフは今も「エゴイスト」にいる(中西)理沙さん以外入れ替わりました。そのときに加奈さんから声をかけてもらって、私も「エゴイスト」に移りました。
加奈さんは、店舗の内装や商品だけでなく、スタッフのヘアやメイクや着用するスタイリングまで含めて、トータルにブランディングをしていったんです。まさに歩くマネキンでしたし、スタッフを雑誌に登場させて、モデル的な役割も果たすようになりました。
「カリスマ店員」の言葉を生み出したのは、「東京ストリートニュース」の編集者さんや、マルキューの広報の喜多将造さんだったと思います。マルキューに注目が集まる中で、雑誌やマスメディアに取り上げる子についても、当初は喜多さんと編集者さんが抜擢したり、ブランドから推薦してもらったりしながら、人気のある子がどんどん露出するようになっていきました。
ファンになってくれたお客さまから、お手紙やプレゼントをもらったり、一緒に写真に収まったり、握手をしたり。感激して泣き出してしまう女の子もいました。うれしさもありましたが、ただの販売員なのに、街中でも声をかけられたり、髪型やメイク、さらにはピアスの場所までマネする子たちが増えて、戸惑いもありました。
バイトなのに海外仕入れ ニンニク注射を打ちながら徹夜で撮影
-店頭での接客販売だけでなく、撮影や海外仕入れなど、店員の枠をはるかに超えた仕事をされていました。やはり大変でしたか。
森本:「エゴイスト」時代は楽しかったけど、とても過酷でした。休みは週1日だけ。でも、そこに雑誌の撮影が入ってしまうので、休みなしで働いていました。しかもほぼ毎週、月~水曜日は韓国に飛んで、昼は南大門を中心に生地屋を回り、サンプルを依頼したり、修正して製品を縫ってもらったり。夜は東大門を中心に深夜まで服やアクセサリーの買い付けをして、寝るのは夜が明ける4~5時ごろ。翌日も朝から仕事をし、水曜日にはハンドキャリー分の商品とともに帰国して、そのまま店に直行し、タグ付けしたり店頭に並べたりしていました。
あまりにもキツイので、撮影は勤務時間内にお願いしたいと申し出ると、編集部はOKでも、他のスタッフから「みんな休みの日に撮影しているのに、容子ちゃんだけズルい」と文句が出たりしました。「え、私、買い付けにも行ってるんですけど……」と思いつつ、ニンニク注射を打ちながら寝ないで仕事や撮影をこなしていました。疲れすぎて、店に立ちながら居眠りしちゃうぐらいヘトヘトでした。
-当時のお給料は?
森本:寝ずに仕事をして、バイト料の手取りが月25万~26万円ぐらい。そのころから、「大人って若い子を使い捨てしているんだな」って意識はありましたね(苦笑)。ただ、加奈さんがスタッフの士気を高めたり、よい経験を積むためにと会社と交渉してくれて、社員旅行では海外のよいホテルに泊めてもらったのがいい思い出です。
-1999年12月、新語・流行語大賞に「カリスマ」が選ばれました。カリスマ店員やカリスマ美容師などを代表して受賞者は「森本容子、その他」となっていました。でも、授賞式のときには「エゴイスト」を辞めていましたね。
森本:疲れちゃったんですよね。もともとずっと表に出たかったわけでもなかったし、歳の離れた弟が脳腫瘍の発作で倒れてしまったのをきっかけに、辞めることにしました。「流行語大賞の表彰式に出なくてもいいの?」ともいわれましたが、目立ちたいわけでもなかったですし、それ以上に「カリスマ店員」を社会現象にしたのは、マルキュー広報の喜多さんとか雑誌の編集者さんの力も大きかったので、私が受けるのもどうかなと思ったというのが正直な気持ちでした。「当分、雑誌には出るな」「士気が下がるから、辞めることをスタッフに話すな」といわれていたので、みなさんにきちんと挨拶できなかったのが少し心残りだったのですが、次の仕事を決めずに、1999年10月にエゴイストを辞めました。
ギャルを卒業した大人の女性に
「マウジー」「カリアング」を作る
-そこから「マウジー」の立ち上げに参画して、今度はプロデューサーとして才覚を発揮されました。
森本: 2000年4月に渋谷109に「マウジー」をオープンしたのは、22歳のときでした。もともとデニムが好きだったのですが、当時は、セクシー・エレガンス系やサーフ系のブランドか、PUFFYさんがはいていたような裏原宿系のメンズっぽいものやストリート系のものがほとんどでした。そこで、オンスの厚い本格的なデニムを使って、シルエットは女性らしく、スタイリングもTシャツやトレンチコート、テーラードジャケットなどを合わせるような、それまでになかったカッコいいスタイルを提案したことで、ギャル上がりの子や一般の人々まで幅広く支持してもらえました。ボスのアイディアと、雑誌、編集者の方々との取り組みもうよかったのだと思います。
雑誌「エスカワイイ!(S Cawaii!)」(主婦の友社)や「ランキング大好き」(ぶんか社、後の「ランズキ」)の表紙を飾らせていただいたりもしましたが、特に「カワイイ!(Cawaii!)」のお姉さん版の「エスカワイイ!」は、私をロールモデルにして創刊したといわれ、とっても光栄でした。
-その後も、マーケットで空白だったゾーンに向けて新ブランドを開発していきました。
森本:「マウジー」のでデビューから3年ぐらいたつと、私自身の目も肥えてきて、「グッチ(GUCCI)」や「ドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)」「プラダ(PRADA)」「ミュウミュウ(MIU MIU)」「ジミー チュウ(JIMMY CHOO)」などのハイブランドの服や靴を身に着けたり、ファーもリアルでゴージャスなものを好むようになりました。普段着でも「もっといいものを着たい」と思うようになりました。
そこで、会社と折半で新会社を作って、ギャルを卒業した大人の世代に向けて、年齢を重ねて素材感やサイズ感などをアップグレードした「プラチナムマウジー(PLATINUM MOUSSY)」をデビューさせました。マルキューで育った「マルキュー世代」の女の子は、大人になったからといって、いきなり百貨店系のコンサバブランドで買い物をするようにはなりません。そこで、トレンドにも敏感で、でもシックでベーシックで、価格も百貨店価格とマルキュー価格の間ぐらいのちょうどいい買いやすい価格のラグジュアリー・カジュアルを提供することにしたんです。
20代後半になると、痩せていても二の腕やウエスト回りなどに肉づきがよくなってきて、隠したくなる部分も出てきます。だから、体形補正機能を持たせたり、目の錯覚で細見えするデザインなど、いろいろな工夫をしました。
同世代の女性のリアルな悩みに応えていると好評だったのですが、自分が本当にやりたいことができているのかどうか分からなくなってしまったんです。それで一人で辞めようと思っていたら一緒に働いていたスタッフに「容子さんが辞めるなら私も辞めます」「容子さんがブランド作ってください」と言われて……。それならと腹をくくって独立し、05年12月にローカスター社を設立し、06年春に「カリアング」の出店を開始しました。
-「カリアング」やドレスラインの「ドレアング(DREANG)」は、「プラチナム マウジー」をさらに発展させて遊び心を入れたり、プロのパタンナーを起用して、より着心地のよい立体的で本格的な服作りをしていましたよね。でも、経営的には苦労したと聞きました。
森本:一点一点の着やすさはもちろんのこと、少ないアイテムで1カ月間の着回しコーディネートができるようなスタイリング提案も支持してもらえたと思います。直営店が16店舗ぐらいまで増えて、売上高も20億円以上あったのですが、経営者に迎えた大人たちが知らないところで大金を銀行から借り入れをしていたことが発覚したんです。その額、数億円。裁判では勝訴しましたが、悪い事をしたもん勝ち!? お金は戻らず悔しい思いをしました。
その後、住金物産系のジュライスターと「ドレアング」をライセンス契約をしていた縁で、「カリアング」を引き継いでいただき、私はヨーコモリモトデザインオフィスとの契約を通じてディレクションに携わるようになりました。その後、「カリアング」はオンワードのグループ会社の傘下で手がけることになりました。縫製工場を変えるといわれて泣く泣く従ったりもしたのですが、縫い方が汚かったり、ボタンがすぐに取れてしまったり……。それまで、私たちがこだわりを持って作っていた商品とはかけ離れてしまい、結局、リスクをとってでも自分たちで好きなことをやろうと決めて、グループ事業の見直しに合わせてブランド運営を自社に戻したというわけです。
同世代に刺さる服を作りたい
お客さまに待たれている気がする
-今のビジネスの状況や、近況は?
森本:「バンカー」や「Y.M.D.O.」などのオンラインストア売上高が月に400万~500万円前後。テレビ通販の「ショップチャンネル」では、お誘いを受けて17年3月から「ヨーコモリモト」を販売しています。当時39歳で最年少デザイナーだったのですが、幸先の良いスタートを切りなかなかの成績を収めています。リアル店舗も渋谷西武などに構えていたのですが、妊娠しても子供が育たない「不育」で何度かダメになっていたので、身体に負荷がかからないようにと、撤退させていただいたり、仕事を少しセーブしたりもしてきました。「不妊」はよく聞くと思うのですが、「不育」はなかなか研究が進まず、専門の病院や医師も少ないんです。昨年5月に4回目の妊娠が分かったときには、すぐに入院して、朝晩自分で注射を打つなど、慎重に過ごしてきました。昨年12月、予定日の3週間前に37週で生まれました。今は子育てが楽しいですね。
-これから挑戦してみたいことや、やってみたいことは?
森本:飛ぶようにモノが売れて、1日1000万円を売り上げるみたいな醍醐味を一度味わってしまっているので「夢よ、もう一度」という気持ちはありますが、もう二度とああいう時代はこないでしょうね。体育会系の子たちが、売れるもの=自分たちがいいなと思うものを作って、自分たちで考えて動いて売って、正解もルールもなく、効率や正しい手順などもなくて。ただ、がむしゃらでしたからね。
私たち自身、遊びにもお金をかけていました。夜になれば面白い人が集まるクラブに行ったり、海外旅行をして、街並みや店や建造物やアートなどを見たりして、いろいろなことを吸収していました。今ではスマホで見て、行った気になったり知った気になったり、洋服も実際に買わなくてもフィッティングルームで写真を撮ってSNSに挙げられたり。努力しなくてもオシャレを装うことができるようになっていますからね。
実は私、ある程度年齢を重ねたら、見込みのある若い子を抜擢してプロデュースしたいなと思っていたんです。でも、今は世の中も働き方も変わり、若い子たちはみんないい子だけど、手応えがなくて。成り上がりたいという意欲や負けん気みたいなものがなくなってしまったというか。お客さまも、選択基準に「無難」とか「値段」が先に来てしまって、トレンドを追わないとか、挑戦しないとか、ちょっと面白みに欠けてきてしまっていますよね。
ー若い人たちには失敗を恐れず挑戦してほしいと?
森本:ただ、当時の私たちみたいな若い子に200万~300万円級の大金を持たせて、好きなものを買い付けてこいとか、若い子たちにたくさん投資をして経験をさせてくれるような人は減ってしまいました。ちなみに当時、大金を託されても、ビビって使い切れない子がいる中で、みずき(フェイクデリックで「スライ(SLY)」を立ち上げた植田みずき。現在はバロックジャパンリミテッドのカンパニー・クリエイティブ・ディレクターで「エンフォルド」クリエイティブ・ディレクター)と私はきっちり使い切っていました。それができるくらいの子でないとブランドを成功させられないと周りの大人たちに言われていました。
そう考えると、やっぱり自分たち自身が同じ世代に育ったお客さまに向けてモノ作りをしていった方がチャンスはあるかなと思います。団塊ジュニア世代で人口も多いですし。たとえば「カリアング」は今、カットソーやニットが中心なのですが、ブラウスとかちょっとした通勤着になるような布帛も増やしていきたいですね。おこがましいけれど、お客さまに待たれているような気がするんです。マルキューブームを通過してきたアラフォー向けの服をうまく作れる人って、実はそんなにいないですよね。服も、売り場も、販売スタッフも、ちゃんと私たちが同じ世代に向けて、自分たちが本当に欲しいものを提供していったらきっと刺さる。もちろんすぐに軌道に乗ったり儲かったりするとは思いませんが、けっこううまくやれると思うんですよね。信頼してくれる方と一緒に、また面白いことができたらいいですね。
松下久美:ファッション週刊紙「WWDジャパン」のデスク、シニアエディター、「日本繊維新聞」の小売り・流通記者として、20年以上にわたり、ファッション企業の経営や戦略などを取材・執筆。著書に「ユニクロ進化論」(ビジネス社)