水戸芸術館現代美術センターのキュレーター時代に「拡張するファッション」(2013)などの展覧会を手掛け、現在は香港のCHAT (Centre for Heritage, Arts and Textile)で共同ディレクターを務める高橋瑞木氏が、“アジアのアートハブ”香港発のアートやテキスタイルの新潮流をリポートする。第1回目は香港とテキスタイル、そしてアートについて。
日本ではもっぱらデモのニュースばかりになってしまった香港だが、世界でもっとも権威のある現代アートフェア「アートバーゼル香港(Art Bsel HongKong)」が開催され、ガゴシアン(GAGOSIAN)やハウザー&ワース(HAUSER & WIRTH)といった国際的なギャラリーが軒を連ねるアートハブでもある。2018 年には香港島の中環(セントラル)にある、19世紀に建てられたコロニアル様式の警察本部をリノベーションした敷地内に、ヘルツォーク&ド・ムーロン(Herzog & de Meuron)設計の現代アートセンター、大館コンテンポラリーがオープンし、村上隆の大型個展が開催されて話題になった。
私が16年から関わっているCHATも、そんな香港で近年にわかに盛んになってきたカルチュラルインダストリー(文化産業)の産物だ。CHATは、南豊集団という香港の大手デベロッパーの前身である南豊テキスタイルが、九龍半島の荃湾(チュンワン)に所有していた3つの工場をリノベーションした建物、The Millsの中に開館した非営利のアートセンターだ。元テキスタイル工場という歴史に敬意を払いながらも、従来のテキスタイル美術館とは異なる、全く新しいコンセプトのアートセンターとして19年3月にオープンした。
現在では国際的な金融都市のイメージが強い香港だが、ほんのすこし前までは世界中にMade in Hong Kongが溢れるくらい製造業が盛んだった。とりわけテキスタイルと衣料産業は、1950年代から80年代にかけて香港の経済発展に大いに貢献した重要な産業だった。第二次世界大戦後、中国本土で共産党と国民党が覇権を争い、共産党が中華人民共和国の成立を宣言(1949年)する頃、 当時イギリスの植民地であった香港に大陸から多くの人々が移住した。その中には、テキスタイル産業が盛んだった上海からの資産家や、 テキスタイル産業に従事していた職人たちも含まれていた。彼らが中心となって 香港でテキスタイル産業がおこされたのだった。香港のテキスタイル産業は、こうした中国からの移民たちの労働力をエンジンに発展してゆく。70年代に世界を席巻した若者たちのデニムブームが、香港のテキスタイル・衣料産業の興隆に拍車をかけた。例えば、80年代に製造された「リーバイス(LEVI’S)」や「ギャップ(GAP)」のジーンズのタグを見てみると、Made in Hong Kongと書かれているものがけっこう見つかる。
ちなみに日本との関連でいえば、かつて香港には大丸や伊勢丹、松坂屋、三越、東急、西武といった日系のデパートが多く進出しており(今はそごうのみ残っているが、経営は香港の資本)、その丁寧なサービスと豪華なインテリアで香港人に大人気だった。こうした日系のデパートで販売されていたワコールの下着は、香港で生産されていた。ピーク時には香港の労働人口の3分の1が従事していたというテキスタイル・衣料産業だが、中国共産党が経済と産業の「改革開放」路線を打ち出して以降、労働者賃金と工場用地が安価な中国本土へと移転していく。香港の製造業は1990年代には斜陽を迎え、唯一稼働していた紡績工場も16年に閉じられた。
CHATの常設展示室では、短い期間ながらも香港の経済・社会発展に大いに寄与した香港のテキスタイル産業について紹介している。展示デザインは、イギリスの権威ある現代美術アーティストの登竜門「ターナー賞(TURNER PRIZE)」を15年に受賞した建築・デザインのコレクティブ、アセンブル(Assemble)によるものだ。紡績産業が華やかなりし時代の写真や糸のラベル、機械、香港製のビンテージアイテムが並ぶ展示室の中央には、来館者が糸の手つむぎやラベルのデザインを楽しむことができるワークショップテーブルが設置されている。展示されているMade in Hong Kongのビンテージアイテムの中には、赤や青の原色に色鮮やかな花模様の「これぞ香港!」といった趣のプリントのテキスタイルもあれば、ブルース・リー愛用として知られる良質な綿を使った香港製のシャツなどがある。
CHATの入り口のすぐ横にはオランダのデジタルクリエイティブ集団によるVRステーションが設けられている。「未来の紡績機」をテーマにデザインされたブースに座り、ゴーグルとヘッドフォンを着けると、70年前の香港にタイムスリップできる。海を渡って香港に到着したテキスタイル産業が、どのように発展し、CHATのフロアはかつてどのような工場だったのか、立体映像と音で体験できる仕掛けだ。
企画展示室では、年に3本の展覧会が開催される。春は「アートバーゼル香港」の開催に合わせて、時代の先端をゆく現代美術アーティストたちによるグループ展、夏は世界的に著名な実力派現代美術アーティストによる個展が、そして冬はテキスタイルやファッションデザイン、イノベーションやテクノロジーに焦点を当てた展覧会が企画されている。
現在CHATは、11月23日にオープンする「須藤玲子の仕事-NUNOのテキスタイルができるまで」展(20年2月23日まで)の準備の真っ最中だ。日本屈指のテキスタイルデザイナー集団であるNUNO、その集団をディレクターとして率いる須藤は、日本全国にちらばる中小規模の織りや染め、加工工場と共同で独創的かつ美しい布をデザインしてきた。今回は創造のインスピレーションから完成までをつまびらかにする最大級の展覧会となる。展覧会の実現にあたって、須藤がタッグを組んだのは、これまでもテキスタイルができる過程を詩的な映像で表現してきたライゾマティクス・アーキテクチャー代表の齋藤精一と、パリや日本で須藤と共にこいのぼりのインスタレーションデザインを手がけてきたアドリアン・ガルデールの2人。
「折り紙織」「アマテ」「クリスクロス」といった、テキスタイル製造の新技術、異素材との組み合わせ、廃棄素材のリサイクルといった、須藤のクリエイションの工夫を示す代表的なテキスタイルデザインのオリジナルスケッチの展示から、ミニマルなかたちで表現されたテキスタイル製造・加工のマシンによる音と光、映像のパフォーマンス的なインスタレーション、NUNOのテキスタイルで飾られた空間デザインと、見どころが盛りだくさんだ。また、ガラスに囲まれたメインホールには、NUNOのテキスタイルで作られた100匹のこいのぼりが空中に浮かぶドラマチックなインスタレーションが展示される。
今回の展覧会を企画するにあたって、須藤のテキスタイルの製作を請け負う工場をいくつか見学させてもらった。どの工場も素晴らしい技術を備えているが、経営者、技術者の高齢化と後継者不足に悩んでいる。美大のテキスタイル学科との連携などは考えられないのか?と尋ねてみたが、意外なことにテキスタイル学科の教授たちはこうした工場での手仕事にはあまり関心がないとのことだった。しかし、もの作りに関心のある若い人がテキスタイル作りのプロセスが版画やドローイング、ペインティングの製作に近いことを知れば、テキスタイル作りにも興味を持つのではないかと思う。
香港市内では、デモやプロテストの殺伐としたニュースが連日続くが、NUNOの色とりどりの美しいテキスタイルの展示が、少しでも人々の心に安らぎや喜びをもたらしてくれたらと思う。良いデザインとは、日常に生き生きとした輝きを与えてくれるだけでなく、それを慈しむ感情を回復させてくれるものだと信じている。
高橋瑞木(たかはし・みずき)/CHAT(Centre for Heritage, Arts and Textile)共同ディレクター:ロンドン大学東洋アフリカ学学院MAを修了後、森美術館開設準備室、水戸芸術館現代美術センターで学芸員を務め、2016年4月CHAT開設のため香港に移住。17年3月末から現職。主な国内外の企画として「Beuys in Japan:ボイスがいた8日間」(2009)「新次元:マンガ表現の現在」(2010)「クワイエット・アテンションズ 彼女からの出発」(2011)「高嶺格のクールジャパン」(2012)、「拡張するファッション」(2013、以上は水戸芸術館)「Ariadne`s Thread」(2016)「(In)tangible Reminiscence」(2017、以上はCHAT)など