インターネットやテクノロジーが発達し、仕事やライフスタイルへの意識が変わりゆく中、働き方は多様化している。働く場所だって、必ずしも日本というわけではなく海外を拠点に選ぶ人もいる。大切なのは、一度きりの自分の人生をどう生きたいかということ。もちろん自身の揺るぎない意思や目標にたどり着くための努力、自分の考えを表現する語学力などは必要だが、可能性は世界に広がっている。ここでは、ヨーロッパに身を置き、自身のブランドを手掛けている日本人デザイナーをピックアップ。その場所を選んだ理由から、海外をベースにする魅力や難しさまでを探る。
第3回に取り上げるのは、フランス・パリでバッグブランド「ミチノ(MICHINO)」を手掛けるヤス・ミチノ(Yasu Michino)=デザイナー。自身のブランドだけでなく、フリーランスで数々のメゾンのバッグ制作にも携わる彼に、国際的な感覚を培った背景やバッグデザイナーになった理由、今後の展望などを聞いた。
−国際的な感覚をお持ちですが、どんな環境で生まれ育ったのですか?
ヤス・ミチノ「ミチノ 」デザイナー(以下、ミチノ):生まれは東京ですが、9カ月の時に父の仕事の関係で中国に引っ越しました。その後、3歳から6歳までは日本、6歳から11歳までは再び中国で過ごしました。そして、今度は香港に移り3年間生活。アメリカの学校に進学するために渡米して、大学卒業までニューヨークにいました。
−いろいろな国や環境の中で育ったんですね。その中で印象深い思い出はありますか?
ミチノ:最近仕事で中国に行った時に、幼少期に中国で暮らしていたことは自分に大きく影響していたと改めて実感しました。というのも、僕が暮らしていたのは1980年代。ブランド品はもちろん、輸入品さえほぼない時代でした。そして8歳の時に、家族旅行で初めてパリに行き、色にあふれた環境やその美しさに憧れを抱きました。日本やアメリカからパリに行ったら、そこまで違いを感じなかったかもしれないですが、当時の自分には全くの別世界で。その格差にショックを受けたんですよね。だから、小さい頃に閉鎖された環境にいたということは、今の自分のエネルギーというかハングリー精神につながっていると思います。そして、パリでデザイン性の高いものに触れ、いい生活には美しいデザインが必要だなと感じました。もう一つは、香港での生活です。当時の香港は、僕からするとブランドもデパートも全てがそろっている大都会。そこで、ファッションの商業的な面により興味を持つようになりました。
−なるほど。それがデザイナーを目指す原点にもなったんですね。ファッションデザインの勉強はニューヨークで?
ミチノ:いいえ。通っていたニューヨーク大学では、美術史とフランス文学を専攻していました。その当時からデザイナーになる夢もパリに行きたいという思いもあったので、そのためになりそうなことを学んでいました。そして、通常4年間かかるところを3年間で卒業。パリに渡り、スタジオ・ベルソー(Studio Bercot)でファッションデザインを専門的に学びました。
−数ある学校の中でスタジオ・ベルソーを選んだ理由は?
ミチノ:すでに大学を卒業していたので、ファッション業界で長年の経験がある人のもとで自由に学びたいと考えました。校長であるマリー・ルキー(Marie Ruckie)さんは、クチュールの時代からプレタポルテへの移り変わりまでを知るファッションの生き字引のような人。彼女との出会いは、自分にとってかけがえのないものとなりました。アメリカから来てファッションのことを何も分かっていなかった僕に彼女が教えてくれたのは、いわばファッションのメンタリティー。具体的には、彼女の考え方や哲学、ファッションの見方を学びました。特にパリのファッション業界では仕組みや感覚などが分かっていなければメゾンで働くのは難しい。働き始めてから教わったことが生かされていると実感しましたね。
−例えば、どんなことですか?
ミチノ :ベルソーは学校ではあるけれど、メゾンのやり方を実践しているようなところなんです。言うなれば、ルキーさんは先生ではなくメゾンを率いるアーティスティック・ディレクターで、生徒はデザインチームのメンバー。提出したデザインに対して彼女が良し悪しを言うのですが、同じデザインでも見せる日によって評価や言っていることが全然違うんですよね。その中で理解したのは、自分のデザインに対する信念や価値観をしっかり持つのが大事だということ。実際、メゾンでもよく起こることなので、ベルソーで慣れていた分、スムーズに働き始めることができました。
偶然の巡り合わせでバッグデザイナーの道へ
−ファッションの中でも
バッグデザイナーを志したきっかけは?
ミチノ :ベルソーでは、2週間ごとにウィメンズとメンズのウエアからバッグやシューズ、ランジェリーまでいろいろなプロジェクトに取り組んでいましたが、もともとバッグデザイナーを目指していたわけではありませんでした。最初のきっかけになったのは、「ソニア リキエル(SONIA RYKIEL)」でのスタージュ(インターンシップ)。初日に行ったら、ウィメンズウエア部門で研修するはずが急きょ変更になり、バッグ部門に配属されちゃって。特にこだわりがあったわけではなかったし、やってみたら評価されたので、自信が湧いてきました。その後は「ジバンシィ(GIVENCHY)」でスタージュをしたのですが、当時はちょうどリカルド・ティッシ(Riccardo Tisci)のアーティスティック・ディレクター就任直後。チームにバッグ専門のデザイナーがいなかったので、スタージュ生でありながら、リカルドと一緒にレザーグッズのデザインをさせてもらいました。工場に行ったり、素材を選んだり、普通ならあり得ない経験だったと思いますし、本当に恵まれていましたね。ただ、学生ビザから就労ビザに切り替える必要があり、早く自立もしたかったので迷っている暇はなく、募集があった「イヴ サンローラン」のジュニアバッグデザイナーとして就職しました。僕は物事を割り切って考えるプラグマチックな性格。その時にある選択肢の中で自分のやるべきことを選ぶので、そういう巡り合わせでバッグデザイナーになりました。結果的に、そんな性格はデザイン性だけでなく実用的であることを求められるバッグに合っていたと思います。
−その後、さまざまなブランドでキャリアを磨いていくんですね。
ミチノ:「イヴ サンローラン」で1年働いた後、「ジバンシィ」からオファーがあり、戻ることにしました。当時、バッグはウィメンズ、メンズ、クチュールに加え、アジア向けのライセンスもやっていて。やることは山積みでしたが楽しくて、仕事に没頭していましたね。勤めていた5年間、イタリア、フランス、スペイン、中国などいろいろな国の工場に行くことも多く、そこでモノ作りの知識やノウハウを培いました。そして、「ジバンシィ」を辞めた後、2012年にカニエ・ウェスト(Kanye West)から声を掛けられ、彼のプロジェクトに携わるのを機にフリーランスデザイナーになることに。最初のプロジェクトは、3カ月という限られた期間で50個のバッグのデザインから製作までを一人で手掛けました。結果、カニエにも喜んでもらえましたし、フリーランスでやっていく自信につながりました。それからカニエとは「イージー(YEEZY)」も含め5年ほど一緒に仕事をしてきたのですが、それと同時に「デルヴォー(DELVAUX)」や「ニナ リッチ(NINA RICCI)」など他のブランドの仕事も受け始め、自分の会社の設立準備も進めていきました。
パリを拠点にしている理由
−そして、14年に自身のブランド「ミチノ」を設立したと。パリを拠点に選んだ理由は?
ミチノ:パリで学び、すでにパリでキャリアを積んでいたので、自分にとってはここを拠点にするのが自然なことでした。仕事面でも、パリにはフリーランスで働けるクライアントがたくさんあるし、多くのバッグ工場があるイタリアにも近い。このアドバンテージは大きいですね。そして、パリは建築などに一貫性があり、ハーモニーを感じる街。世界を代表する美術館が多く、イベントも常に行われているので、さまざまなインスピレーションを得ることができます。
−自分のブランドとフリーランスの仕事を両立させる上で難しいところは?
ミチノ:難しいのは、タイム・マネジメント。フリーランスの仕事は、ブランドによってコレクションのペースも違うし、毎日オフィスに行くわけではないので、自分で計画的にきちんと進めていくことが重要です。
−逆に良かったと感じることはありますか?
ミチノ:自分のブランドはまだ小さく、幅広いスタイルを提案すると軸がぶれてしまうので、フォーカスする必要があります。なのでフリーランスの仕事を通して、デザイナーとしての自分が持つ他の引き出しや側面を表現することができるのは、良いところです。そして、他のブランドで働くことによって、それぞれのブランドが持つ異なる価値観から自分のやっていることを客観視できるというのもメリットですね。
−「ミチノ」は徐々に国内外での販路やメディア露出を増やしていますが、今後の目標は?
ミチノ :「ミチノ」は、僕にとってパーソナルなブランド。なので、今まで自分が生きてきた日本、中国、アメリカ、フランスで成功したいという気持ちがあります。それは、その国で暮らして現地の人と接してきたからこそ生まれるデザインだと思っているから。そして、時代に適したものを作りながら、自分を表現していきたいと考えています。
−では、フリーランスのデザイナーとして目指していることや、今後一緒に仕事をしてみたいブランドはありますか?
ミチノ :フリーランスとして目指しているのは、クライアントがハッピーであることと、自分のデザインしたものが多くの人から支持してもらえること。一緒に仕事をしたいのは、「モワナ(MOYNAT)」と「ユニクロ(UNIQLO)」です。「モワナ」はレザーを使ったモノ作りへの情熱が素晴らしいし、「ユニクロ」はバッグのカテゴリーを確立できるポテンシャルがあると思うので、そういうところで自分の強みを生かしたバッグを作れたらいいなと思っています。また、今はメゾンのデザインチームの一員として名前を出さずに働いていますが、将来的には自分のブランドを手掛けつつ、バッグブランドのクリエイティブ・ディレクターとしても働きたいです。
JUN YABUNO:1986年大阪生まれ。ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションを卒業後、「WWDジャパン」の編集記者として、ヨーロッパのファッション・ウィークの取材をはじめ、デザイナーズブランドやバッグ、インポーター、新人発掘などの分野を担当。2017年9月ベルリンに拠点を移し、フリーランスでファッションとライフスタイル関連の記事執筆や翻訳を手掛ける。「Yahoo!ニュース 個人」のオーサーも務める。